西太平洋に浮かぶ美しい島パラオ共和国。
人口は2万人ほどですが、海がとても綺麗で自然豊かな国です。 そ
そんな小さな国パラオと沖縄は、100年ほど前から今に続く深い深い関係にあるんです。
直近でも2023年に玉城デニー沖縄県知事がパラオを訪問し友好関係強化につとめました。
そして両地域とも私にとって深い地域でもあります。
プロフィール欄でも紹介していますが、私はパラオに4年滞在、さらに帰国後もパラオ関連の仕事を6年続けていたので、計10年近くパラオ関連の仕事に携わっていました。
今回、当ホームページの趣旨とは直接関係ありません(間接的には関係ある)が、西太平洋の国パラオと沖縄の知られざる関係について当記事で発信していきたいと思います。
パラオ共和国とはどんな国 ?

まずはパラオ共和国とはどんな国かということを簡単に説明します。
外務省のデータによると概要はこちら
- 人口:18,050人(世界で6番目に少ない人口)
- 面積:488㎢(屋久島と同じ 他にも金沢市や横浜市と近い)
- 首都:マルキョク
ちなみにパラオが位置するのは、日本の真南3000キロ、西にはフィリピン、北東にはグアムがあります。
ほぼ赤道直下に位置する常夏の島です。 日本の真南なので、時差はありません。
海はとても綺麗で世界中のダイバーの憧れの的になっています!沖縄の海ももちろん綺麗ですが、魚影の濃さでは世界一と言っても過言ではありません。

と諸々昔を思い出し、パラオのことを書き始めると止まらなくなってしまうので、観光や概要についてはこの辺で。 あくまでも本記事ではパラオと沖縄の関係性についての記事ですね。
パラオ共和国と沖縄、そして日本との関係とは
パラオと沖縄の関係の前に、パラオと日本の関係から解説した方が後述する沖縄パラオ関係がスッーっと入ってくると思いますので先に解説します。
パラオ共和国と日本の関係とは
日本とパラオの関係は今から100年以上前、1914年まで遡ります。
当時、パラオはドイツが占領していましたが、第一次世界大戦が始まると、日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領します。
その後、国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められ、 1922年南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がパラオのコロールに設置されます。
日本の委任統治はパラオの他にもサイパンやチューク、マーシャルやヤップなども含まれました。
南洋庁本庁があるコロールはとても栄え、当時としては珍しい鉄筋コンクリート作りの家が立ち並び、芸者通りなどの繁華街も形成されました。
個人的に今のコロールよりも栄えていたと思います。 その証拠として、1938年には15,700名の日本人がいたそうで、今のコロールよりも人口が多いのです。
しかしパラオはその後、太平洋戦争の影響でアメリカ軍から攻撃を受け、コロールやペリリューは壊滅。日本人・パラオ人双方に多くの死者を出しました。
戦後、アメリカが信託統治をし、独立したのは1994年とつい最近のことです。

パラオ共和国の歴史についてざっくり解説しましたが、日本の統治の影響から今でも日本の文化や言葉が色濃く残っています。
例えば、花札をやる習慣や、ジャンケン(パラオでは掛け声がアイコデショ)、そして食文化、言語や人の名前などがあげられます。
「ダイジョウブ」「アブナイ」「ヤラレタ」「デンキ」「サルマタ=パンツのこと」「エモンカケ=ハンガーのこと」 名前も「ウエキ」、「シゲオ」、「ナカムラ」 私がパラオにいた頃はまだ70代後半以上の人は流暢に日本語を話していました。
年数 | 出来事 |
---|---|
1500年代 | スペイン人がミクロネシアの島々に来航。 |
1899年 | スペインがミクロネシアの島々をドイツに売却。 |
1914年 | 第一次世界大戦始まる。日本はパラオを含むドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領。 |
1920年 | 国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。 |
1922年 | 南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がコロールに設置される。 |
1944年 | ペリリュー島の戦いで日米双方に多くの死者がでる |
1945年 | 第二次世界大戦終了後、米軍の占領始まる。 |
1947年 | 国連の太平洋信託統治領として米国の統治始まる。 |
1994年10月1日 | アメリカから独立。 |
1994年12月 | 国連加盟 |
パラオ共和国と沖縄の関係について
戦前にパラオには多くの日本人が移住しましたが、『沖縄県史 移民』によると約半数が沖縄県民でした。
※資料により、沖縄県民の移住者の数は異なりますが、日本人移住者の約半数が沖縄県民だったということは間違いなさそうです。
ちなみにパラオだけではく、国策によってサイパンなどの他の南洋群島にも最盛期には5万人もの沖縄県民(ルーツがある人も含めて)が移住したというので驚きです。
この背景として、元々沖縄県民は19世紀後半から南米などへ移住者が増え、移住に対し、抵抗がないこと。 他にも移民会社・移民指導者の存在、貧困などがあげられます。
特にパラオへの移住者が多かった理由は、国策会社「南洋興発」が製糖事業拡大のため、甘蔗に慣れ親しんでる沖縄県民に目をつけ、募集したことによります。
そう、甘蔗 = さとうきびです。他にもパインの栽培など、今でも沖縄の産物ですが、パラオでも同じように栽培がされていたんですね。
とはいえ、今のパラオでは、さとうきびやパインなどの農園を見かけることがほとんど少なくなってしまったのが残念ですが…
そういった背景もあり、1920年代初頭から沖縄県民が徐々にパラオへ移住し、最盛期には日本人の移住者の半数を占めることになったんですね。
パラオ共和国に残る沖縄
戦前移住者が多かったパラオ共和国。
今でもその名残として、パラオ共和国に行くと沖縄を感じることができます。
例えば、ストアに行くと、「タマ」と呼ばれるほぼ「サーターアンダギー」に近いお菓子があり、他にも「ポーポー(小麦粉の側を薄くまいたクレープのようなお菓子)」にそっくりなお菓子も売っていました。


またパラオ人の名前にも沖縄を感じられます。
「ヒガ」や「キンジョウ」「チバナ」など沖縄に縁がある名前の方もたくさんいらっしゃいます。 現在でもパラオ人のルーツを辿ると沖縄の人も多いのも事実です。
ちなみにコロールにある「HKモーテル(現在営業してるか不明)」というホテルは別名「民宿金城」で、オーナーは沖縄の血が入っている方でした。
直接は関係ありませんが、沖縄同様戦後アメリカが統治したので、パラオでは「スパムおにぎり」が定番です。
残念ながら文化だけではなく、悲しい真実がわかるものも残っています。 パラオは太平洋戦争の激戦地。特にペリリュー島は日米双方で12,000名あまりの人命が失われました。 多くの沖縄県民も亡くなりました。
ペリリューの戦いでは泳ぎの得意な糸満出身の兵隊が泳いで海上伝令を司令部まで届けたという話もあります。
戦後パラオには亡くなった沖縄の人を偲び3つの「沖縄の塔」が建立されたのです。もちろん今でもその慰霊碑は残っています。

南洋群島から帰還された沖縄県民とその遺族の方々が、不定期で慰霊のためパラオへ訪れています。
このように、今でもパラオと沖縄は深い関係にあるのです。 こういった繋がりをウチナーンチュでも知らない人は多いのではないでしょうか。
パラオ共和国と沖縄の関係性をもっと知って欲しい
ここまでパラオと沖縄の関係について紹介しました。
私がなぜこの記事を執筆したかと言うと、パラオと沖縄のことを知って欲しい!そして両地域に関係のある私だからこそ伝える意味があるのかなと勝手に思ったからです!
パラオと日本の関係性は知っているという人でも、沖縄とパラオのことを知っている人はそう多くないのではないでしょうか。
私が常に両地域のニュースに敏感になっているかわかりませんが、近年両地域で人材を交流させたり、包括協定を結んだりとパラオと沖縄関係のニュースが目につきます。
他にもお歳をめされた方で、パラオからの帰還者の経験談をニュースでよく目にします。
改めて、沖縄にいると両地域の深い関係を実感します。
今後、私自身沖縄にいながら、パラオ共和国のことを発信したり、また両地域の繋がりに何らか関与できればと考えています。
とまあ今回ブログの趣旨とはずれてしまいましたが、筆者がかつて住んでいた「パラオ共和国」と今住んでいる「沖縄」の関係性に「そんな深い関係があるんだ」ということを知って頂ければ幸いです。
ちなみにパラオへの渡航は、パラオ専門の旅行会社がありますので、ぜひご検討ください。