〜VOL26〜 糸満市真栄里の戦争遺跡 女子学徒「白梅学徒隊」が祀られている「白梅之塔」

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10代の学生が前線にたたされる異常な沖縄戦

沖縄戦では多くの10代の学生が学徒隊として、日本軍に動員されました。

学徒隊は男子生徒だけではなく、女学生も多く動員され、青春真っ只中の生徒がたくさん亡くなりました。

女子学徒隊といえば、「ひめゆり学徒隊」を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、実は女子学徒隊は9もあり、「ひめゆり学徒隊」や今回紹介する「白梅学徒隊」はそのうちの一つとなります。

青春を投げ打って戦地に赴いた乙女達は「ひめゆり学徒隊」だけでないということです。

白梅学徒隊はどのような学徒隊なのか、そしてどのように沖縄戦を経験したのか紹介していきます。

「白梅学徒隊」とは

「白梅学徒隊」とは沖縄県立第二高等女学校の4年生たちによって編成された部隊の名前です。校章の白梅から戦後、「白梅学徒隊」と呼ばれるようになりました。

 戦時中は「女学生さん」と兵隊から呼ばれていました。

沖縄県立第二高等女学校は那覇市の松山にありましたが、1944年10月の「十十空襲」によって焼失しました。
その後、仮校舎で勉学に励みましたが、沖縄戦が近づくと、竹槍での訓練や壕の構築などにも従事します。

3月6日、56名の4年生が従軍補助看護婦として、東風平(八重瀬町)国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊しました。

入隊後、彼女たちは看護教育を受けましたが、3月24日上陸前空襲により看護教育は打ち切られ、体調不良などの理由で10名が除隊措置を受けたため46名が第24師団第一野戦病院へ配属されました。

第24師団第一野戦病院本部壕をベースに沖縄戦が始まると負傷兵が増えたことにより、ヌヌマチガマ(新城分院)や東風平分院が新たに開設され、それぞれ数名が配属されました。

「白梅学徒隊」の任務は主に負傷兵の看護。
当時の看護の様子を元学徒隊の「中山きく」さんが証言してしております。

「足を切るときなんかはたいてい兵隊がメスを入れた途端に叫ぶんです」
(兵士が)「やめてくれ!」「切れないでくれ!」
「とにかく手術の場面は耐えられなかった」と


日テレNEWS24公式より

6月4日戦局が絶望になり、アメリカ軍が迫ってきたとの理由で学徒らに解散命令が言い渡されました。

解散と行ってもどこにも行くあてがなく激しい砲撃の中、友人同士で戦場の中を彷徨う生徒もいれば、国吉(糸満市)の病院壕に辿り着き迎えられて勤務を続けていた生徒たちもいます。

しかし、この病院壕は6月21日から22日にかけてのアメリカ軍の猛攻によって10名が犠牲となり、それ以外の学徒も逃避行の中、12名が犠牲となりました。

その後アメリカ軍の捕虜となったりして助かった生徒もいましたが、残念ながら22名の生徒が亡くなりました。

「白梅学徒隊」は動員された46名のうち、解散命令がでるまでは1人も犠牲者はいませんでしたが、解散命令後は22名の犠牲者がでています。突然の軍の解散命令によって行き場を失った女学生は、大変危険な戦場へ突然放り出され、犠牲者が増えていったのです。

下記、「白梅学徒隊」の沖縄戦での動きです。

  • 1945年3月6日 56名の4年生が従軍補助看護婦として、第24師団衛生看護教育隊に入隊。
  • 3月24日 上陸前空襲により看護教育は打ち切られ、46名が第24師団第一野戦病院に配属。
  • 6月4日 戦局が絶望になり、学徒らに解散命令が言い渡される。
  • 6月初旬 国吉(糸満市)の病院壕に16名が辿り着き、看護を再開
  • 6月21日、22日 上の壕と下の壕がアメリカ軍の攻撃を受け、死者がでる。
  • 沖縄戦で46名のうち22名の生徒が亡くなる。

国吉の病院壕の跡に建つ「白梅の塔」

国吉の病院壕では前述したように、米軍の猛攻によって10名が犠牲となりました。1947年病院壕の直ぐ近くに小さな慰霊碑を建立。1992年に現在の慰霊碑の形になりました。

白梅の塔を訪れると、想像以上に敷地も広く整備されていました。慰霊碑の説明もいくつかあったため、他の戦跡や慰霊碑よりも管理が行き届いている印象でした。

しかし私が訪れた日は、私以外誰もおらず同じ女子学徒隊のひめゆり資料館と比べると、賑やかさが全然違います。

「白梅之塔」は周辺の静けさと白梅学徒隊の悲劇が相まって、どこかもの悲しい雰囲気が漂っている印象でした。戦跡の見せ方、伝え方には改めて様々な方法があると実感しました。

とても静かな場所で、白梅の生徒、関係者が祀られています。

実際、「白梅学徒隊」がいた壕は慰霊碑右手に南禅廣寺という小さなお堂の近くにあります。

現在は落石の危険性があるので入れません。

「山形の塔」から「白梅之塔」を見る。周囲には誰もいない、静かな場所。

「白梅学徒隊」がいたもう一つの壕

実際に白梅学徒隊が従事していた壕が近くにもう一つあります。「上の壕」と呼ばれ、白梅の塔の前の道路を上がった「山形の塔」「眞山之塔」の近くにあります。

「上の壕」は食料弾薬倉庫、「下の壕」は傷病兵の看護場所として利用されていましたが、両壕とも、アメリカ軍の攻撃にあい犠牲者がでています。

両壕とも今は崩れる可能性があるので、中に入ることはできません。

尚、「上の壕」にも慰霊碑が建立されております。是非「下の壕」と一緒に「上の壕」も訪れることをおすすめします。

「白梅学徒隊」を後世に伝える「若梅会」

戦後75年以上が経ち、戦争の悲劇をどのように継承していくかが議論されています。「白梅学徒隊」では、生き残りで現在語り部をされている中山きくさんがいらっしゃいますが、ご高齢のため活動も段々制限されていくでしょう。

長年語り部として活動されていました中山さんは、2023年1月15日逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

そこで中山きくさんの呼び掛けで、2019年2月に20~50代の男女9人が「若梅会」を結成しました。主な活動内容は平和学習の講師やガイド、慰霊祭の運営などです。

沖縄戦の継承は必ずしていかなければいけないことで、若い世代の方々がこのように活動されていることに尊敬の念をいだきます。

これからの時代を造る若い方々が率先して継承活動を続けていけば、次の世も必ず戦争のない世界があると私は信じています。

このような団体が少しでも増えて欲しいと心から祈るばかりです。

白梅之塔」

住所
沖縄県糸満市真栄里1789
駐車場
「白梅之塔」真向かいの敷地

戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
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ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
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