– VOL38 -「ハーフムーンヒル」那覇市真嘉比の戦争遺跡 再開発で姿を消した沖縄戦の激戦地

※この記事には広告を含む場合があります

当サイトの記事には広告として、アフィリエイトプログラムが使用されています。アフィリエイトによって得られた収益は、より質の高い情報を提供するために当サイトの運営費に充てています。

当サイトの円滑な運営のため、読者の方にはご理解とご協力をよろしくお願いします。

戦跡マップを開く

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森 米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕 シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

「ハーフムーンヒル」はゆいレールおもろまち駅のすぐ近くにあった小高い丘のことです。(ありましたということはもうありません)

「ハーフムーンヒル」は沖縄戦時アメリカ軍からの呼称で、丘の形が半月に見えたことからそう呼ばれました。

すぐ近くの「シュガーローフヒル」とともに、日本軍が陣地を構築しアメリカ軍に対し徹底抗戦した場所で、2つの丘を巡る戦いは苛烈を極めました。

「シュガーローフヒル」は一般的に「シュガーローフの戦い」と言われるように知名度は高いですが、「ハーフムーンヒル」はそこまで知名度はないと思います。

「シュガーローフの戦い」は「シュガーローフヒル」と近接する「ハーフムーンヒル」と連携しアメリカ軍をおさえました。

実は「シュガーローフの戦い」で「ハーフムーン」は日本軍が首里から撤退する5月31日までアメリカ軍は攻略できなかった場所なのです。※シュガーローフは制圧されています。

そんな「ハーフムーンヒル」も戦後80年近くが経過し、再開発の波にのまれていきます。

今回は、激戦地の一つ「ハーフムーンヒル」と現在に残る形跡について紹介していきます。

激戦地「ハーフムーンヒル」の戦い

沖縄戦時のハーフムーン 「沖縄県公文書館所蔵」

「ハーフムーンヒル」は古くからウフドウムイ(大道森)と呼ばれ、沖縄式の古い墓が数多くあった小高い丘です。

日本軍側からのこの小高い丘のを戦史叢書(公刊戦史)で見ると「真嘉比」、八原参謀の手記「沖縄決戦」では「真嘉比東南側高地」表記されているのが確認取れました。

ちなみに大道という地名は今でも残っており、現在の安里駅からおもろまち駅の東側エリアをさします。

「ハーフムーンヒル」は北部から侵攻し、那覇(最終的には司令部のある首里)を目指したアメリカ軍と激戦なりました。

日本軍は墓と墓を地下通路で繋ぎ、迷路のような陣地を構築。

ハーフムーンやシュガーローフの位置関係
ハーフムーン周辺の丘の位置関係(Googleマップから)

1945年5月12日から始まった沖縄戦最大の激戦とも言われる「シュガーローフの戦い」は「ハーフムーンヒル」や「シュガーローフヒル」を中心に激戦となりました。

すぐ近くの「シュガーローフヒル」と「ホースシュー」や首里高地と連携し、堅固な陣地を築き上げていきます。

日本軍は以下のような陣地を反対斜面(反射面陣地)に作り、各高台と連携しアメリカ軍に対抗しました。

解説:反射面陣地

「反斜面陣地」は敵側から見て反対斜面に構築した陣地のことです。「反斜面陣地」は敵側の観測がしずらく配置している軍の情報をわかりづらくする効果があります。また反対側の斜面などで砲撃などを受けずらいメリットがあります。日本軍は「反斜面陣地」を首里周辺の高地に数多く構築しアメリカ軍を悩ませた。

シュガーローフ・ヒルの反対斜面にある無数の日本軍壕の1つ。
シュガーローフヒルの日本軍陣地 「沖縄県公文書館所蔵」

この戦いでアメリカ軍は、2662名の死傷者と1289名の戦闘疲労患者を出したと言われています。

日本軍の損害は統計がないため明らかではありませんが、多くの犠牲者がでたことは言うまでもありません。

この戦いを制したアメリカ軍は那覇に侵攻。そして司令部のある首里への攻撃を有利に進めます。

【“戦い、そして、死んでいく” 〜沖縄戦 発掘された米軍録音記録~】

予告編はこちら ➡︎

2023年にNHKで放映された【“戦い、そして、死んでいく” 〜沖縄戦 発掘された米軍録音記録~】では「シュガーローフの戦い」を戦ったアメリカ軍第6海兵師団の兵士の肉声が公開されました。日本側の記録が乏しいので、(ましてや日本兵の肉声は残っていない)とても貴重な資料です。

兵士の慌ただしい口調や息遣いから緊迫した「シュガーローフの戦い」の様子がひしひしと伝わってきます。

「日本兵がいたるところからマシンガンを撃ってきた」
「部隊は散り散りになりまさに大量殺人だ」

“戦い、そして、死んでいく” 〜沖縄戦 発掘された米軍録音記録~より

現在本編はNHKオンデマンドやU-NEXTで視聴可能です。

今なら新規登録で実質無料で視聴可能

戦後街に飲み込まれた「ハーフムーンヒル」

「ハーフムーンヒル」周辺は戦後の再開発で大きく姿が変わりました。那覇の新都心として、区画が整備された綺麗な街に変貌。

「ハーフムーンヒル」にあった古いお墓も移転し、丘は姿を消しました。

私が「ハーフムーンヒル」を調べた時にあまりの変貌に驚きました。普段何気なく通っている大きな通りは「ハーフムーヒンヒル」をごっそり削った後に作られていたのです。

「ハーフムーンヒル」が再開発で姿を消したのは2010年頃と比較的最近で、那覇の中心街でも少し前まで戦時中のまま地形が残っていたのです。

ハーフムーン

2008年放映のNHKアーカイブスでは「ハーフムーンヒル」が残っていることが確認できます。

時の流れにのるようにかつての戦場は、平和な住宅街になりました。残念な気もしますが、しかたないのかもしれません。

本当に遺骨・遺品収集が終わったのかは疑問ですが…

当時の遺品が展示されている「真嘉比南公園」

真嘉比南公園

「ハーフムーンヒル」は姿を消しましたが、当時の様子がわかる場所が残っています。

綺麗な住宅街の中にある「真嘉比南公園」に「ハーフムーンヒル」の案内板と、再開発の際に発見された遺品の一部が公園内に展示されています。

真嘉比南公園内にある遺品

新しい住宅街の中に突然戦場の痕跡が現れます。

平成に入ってからの街中の開発でも遺骨や遺品がでてくるということは、戦後まもない頃、沖縄各地で多くの遺品が出たことは想像に難くありません。

普通の住宅街に戦場の遺品は不釣り合いですが、激しい地上戦があった沖縄ではこのような景色はよく見かけます。(公園内に弾痕の壁が展示されているなど)

再開発で姿を消した「ハーフムーンヒル」。平和な公園や住宅街からは楽しそうな子供の声が聞こえてきます。

【ハーフムーンヒル(真嘉比南公園)】

住所
沖縄県那覇市真嘉比1丁目13−15
駐車場
周辺に有料コインパーキングあり

戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に戦跡を案内して欲しいというご希望がございましたら、
ぜひお気軽にお問い合わせください。

ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
今ならひと目でわかる戦跡マップ付き