〜VOL31〜糸満市伊原の戦争遺跡 多くのひめゆり学徒隊が亡くなった場所に立てられた「ひめゆりの塔」

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沖縄戦を語る上で重要な学生の動員。

当時青春を謳歌していた夢ある少女たちも戦争に巻き込まれていき、そして亡くなっていきました…

沖縄戦時、9つの女子学徒隊が結成され、従軍しました。

その中の1つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。

実際「ひめゆり学徒隊」の名前を知っている人は多いのではないでしょうか。

今回は「ひめゆり学徒隊」に焦点をあて、実際の証言などから彼女たちについて紹介します。

「ひめゆり学徒隊」とは?わかりやすく解説

ひめゆり学徒隊はどのような学徒隊だったのでしょうか?そして彼女たちはどのような学園生活を送っていたのでしょうか?

元々は青春を謳歌する女子学生

ひめゆり学徒隊のは「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来です。

1940年代には沖縄師範学校女子部および沖縄県立第一高等女学の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようです。

学校名は異なるが、両校は校長も同じで同じ場所にあることから実質一つの学校に近いものであった

両校とも県内各地から優秀な学生が集まり、将来は学校の先生を目指す人が多かったようです。

学校生活は部活動に参加し、流行のイラストやアイテムに熱中し、小説等を回し読みするなど、楽しい学校生活を過ごしていました。

学校内にはプールやテニスコートもあり、まさに昭和の女子学生と令和の女子学生も何ら変わらない生活を送っていました。

また美人コンテストがあったという話も元生徒が楽しそうに証言しています。

入学まもない頃、「今日は美人コンテストがあるからね」と紙を配った。「一番美人だと思う人を書いてください」と係の二年生が言ったので、素直に一年生も綺麗な人を書いて投票した

                            中本とみさんの証言より引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』

しかし楽しい学校生活も沖縄戦が近づくにつれ、教育も軍事色が強くなり、なぎなたや竹槍の訓練。更に陣地の構築作業にも駆り出され、通常の授業が段々と行えなくなっていきます。

看護隊として動員

1945年が明けてすぐ学生達は厳しい看護訓練に明け暮れました。

沖縄戦が始まろうとしている1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍南風原病院壕に看護要員として動員されました。

ちなみに周りの軍人からは「ひめゆり学徒隊」ではなく単に「学生さん」や「生徒さん」と呼ばれていたそうです。ただしここでは「ひめゆり学徒隊」として紹介します。

40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容した壕の中で、彼女たちは懸命に働きます。

主な業務は軍医や衛生兵、看護婦などの手伝いでしたが、 負傷兵の世話や手術の補佐に加えて、食糧運搬や水汲みなど、砲爆撃の下での危険な仕事もありました。 戦況が悪化し、重傷者が増えると、死体埋葬が日常茶飯事となりました。

死体を担架に乗せ、艦砲の合間を縫って、艦砲穴に一、二、三の掛け声で投げ込み、全身が隠れる位まで土をかけて埋めていった。

渡久山ハルさんの証言 引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』                                               

アメリカ軍が差し迫った1945年5月25日、沖縄陸軍病院は南部への撤退が命じられます。

生徒たちは、砲弾降り注ぐ中、歩ける患者に手を貸し、傷ついた友人を担架に乗せ、薬品などを背負って、南部へと移動しました。

また重傷を負った学友や兵士たちは、病院壕に残さざるをえませんでした。

そして命からがら、沖縄本島南部の移動した各陸軍病院壕(病院といっても自然洞窟を利用した非常に簡素なもの)に到着するのです。

撤退の途中で死亡者もでています。

解散命令で多くの死傷者を出す

6月18日各壕へ「ひめゆり学徒隊」に衝撃の命令が出されます。

解散命令です。

解散命令とは軍から離れ、各自自らの判断で行動せよということを意味しました

「お国のためだ必ず勝つ」と言って一緒にここまで頑張ってきたのに、一体これからどうするのかと悔しさと怒りがこみあげてきた

宮良ルリさんの証言より引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』

解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、「鉄の暴風」と呼ばれた雨のように降りそそぐ砲弾の中、昼間はソテツやアダンの茂みに身をひそめ、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かいました。

負傷した学友を助けて歩いていく生徒、傷ついた体を引きずりながら逃げる生徒、重傷で動けずにその場に倒れる生徒、砲弾に吹き飛ばされていく生徒、行き場を失い父母の名を叫びながら死んでいく生徒が続出しました。

生徒たちはアメリカ軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人もいました。

最終的に「ひめゆり学徒隊」は教師・学徒240人のうち136人が亡くなりました。実に半数以上が亡くなっているという恐ろしい死亡率です。

そして解散命令がでた次の日から約1週間の間に多数の犠牲を出しているのです(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。

下記、「ひめゆり学徒隊」の動きです。

  1. 1945年明けてから看護教育が始まる。
  2. 1945年3月23日 生徒222名・引率の教師18名の計240名が「沖縄陸軍南風原病院」に配属される。
  3. 3月26日 沖縄戦開始 壕の中で必死に看護活動をする
  4. 5月25日 陸軍病院に南部への撤退命令がだされ、動ける兵隊と共に南部へ向かう
  5. 6月18日 解散命令が出される
  6. 6月19日 伊原第三外科壕が攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が亡くなる
  7. 6月後半 解散命令後、アメリカ軍の攻撃や自決などで多くの人が亡くなる。(解散命令から約1週間の間に死亡者のうち実に80%が亡くなる)

伊原第三外科壕の跡に建てられた「ひめゆりの塔」

最も多くの犠牲者を出した伊原第三外科壕に、1946年「ひめゆりの塔」は建てられました。

最初の「ひめゆりの塔」は戦後すぐ建てられたということもあり、物資が不足していることから高さ100センチの簡素なものです。

現在の「ひめゆりの塔」は、1957年に、納骨堂を包む形で百合のレリーフと刻銘版が取り付けられ綺麗に大きくなりました。

実は今でも最初の「ひめゆりの塔」を見ることができます。目立たないですが献花台のすぐ後ろにあります。

周辺には生き残った引率教師が戦死した教え子を悼んで詠んだ「いわまくらの牌」や(右手前)、戦後間もない頃に建てられた「刻銘碑」なども並んでいます。

1日中参拝客が絶えない「ひめゆりの塔」

二度と学生や若者・全ての人が戦場に行くことがないよう、平和を祈りたいですね。

沖縄戦の体験と平和の尊さを伝える「ひめゆり平和祈念資料館」

「ひめゆりの塔」参拝後に是非訪れて欲しいのが「ひめゆり平和祈念資料館」

「ひめゆり学徒隊」の生徒達の学校生活から病院壕での看護活動。さらには解散後からの各生徒の足取りなど、とてもわかりやすく時系列で展示しております。

特に見ていただきたいのが第4展示室「鎮魂」。

沖縄戦で亡くなった227人の生徒と教師の写真と名前が飾られ、人柄についても触れることができます。

まさに鎮魂の空間で一人一人が生きた証です。

なぜ普通の学生・先生達は戦場に行かなければならなかったのか、なぜ死ななければいけなかったのか、そして防ぐことはできなかったのか、壁にかけられた微笑む彼女達の写真を見ながら色々考えさせられる場所です。

戦争を二度と起こさない!それが平和の時代を生きる我々の使命ではないでしょうか。写真を見ながら切に感じました。

「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿るモデルコースを以下記事で紹介しています。「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿る事でより実相がわかりますので、是非色んな場所に訪れてください。

ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」

住所
沖縄県糸満市字伊原671-1
駐車場
あり
電話番号(お問い合わせ先 ひめゆり平和祈念資料館)
098-997-2100
営業時間
午前9:00~午後5:25※入館受付は午後5:00まで ※ひめゆりの塔は、資料館閉館時もご来場いただけます
定休日
なし年中無休
ホームページ
https://www.himeyuri.or.jp/
入場料
大人¥450 高校生¥250 中学生・小学生¥150

戦争遺跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に案内して欲しいというご希望がございましたら、
是非お気軽にお問い合わせください。

ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
戦跡を回る際のお供に是非