沖縄戦を知る上で重要な学生の動員。沖縄戦時、9つの女子学徒隊が看護隊として動員されました。
その一つが戦後テレビや映画で題材になり有名になった「ひめゆり学徒隊」です。
1953年公開の『ひめゆりの塔』や1968年の公開の『あゝひめゆりの塔』などが有名です。
「ひめゆり学徒隊」とは、沖縄戦で野戦病院に動員された、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒・教師からなる看護隊のことです。
当時、両校から生徒222人と教師18人の計240人が沖縄陸軍病院南風原壕に動員され、負傷兵の看護や食料・水の運搬、手術の手伝いなどにあたりました。戦況が悪化すると病院は南部へ撤退し、「ひめゆり学徒隊」も各地の壕へ移動します。
その後解散命令が出され、多くの生徒・教師が亡くなりました。最終的に、沖縄陸軍病院に動員された240人のうち136人が亡くなっています。
本記事では、「ひめゆり学徒隊」とはどのような女学生だったのか、なぜ戦場に動員されたのか、沖縄戦で何を経験したのかを、できるだけわかりやすく解説します。
また、現在も残る「ひめゆりの塔」や伊原第三外科壕など、実際に訪れることができる戦跡についても紹介します。
「ひめゆり学徒隊」とは?わかりやすく解説

ひめゆり学徒隊 名前の由来
ひめゆり学徒隊の「ひめゆり」とは、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来です。
1940年代には沖縄師範学校女子部および沖縄県立第一高等女学の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようです。
学校名は異なるが、両校は校長も同じで同じ場所にあることから実質一つの学校に近いものであった
なお、戦時中は「ひめゆり学徒隊」という学徒隊は存在せず、戦後に彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。
証言から沖縄戦当時は「一高女生」「師範生」「女学生さん」「学生さん」「生徒さん」などと呼ばれていたようです。
元々は青春を謳歌する女子学生
悲劇のイメージが強い「ひめゆり学徒隊」の少女たちも元々は青春を謳歌する女子学生でした。
両校とも県内各地から優秀な学生が集まり、将来は学校の先生を目指す人が多かったようです。
学校生活は部活動に参加し、流行のイラストやアイテムに熱中し、小説等を回し読みするなど、楽しい学校生活を過ごしていました。
学校内にはプールやテニスコートもあり、まさに昭和の女子学生と令和の女子学生も何ら変わらない生活を送っていました。
また美人コンテストがあったという話も元生徒が楽しそうに証言しています。
入学まもない頃、「今日は美人コンテストがあるからね」と紙を配った。「一番美人だと思う人を書いてください」と係の二年生が言ったので、素直に一年生も綺麗な人を書いて投票した。
中本とみさんの証言より引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』
現在、両校の遺構は全く残っていませんが、沖縄師範学校女子部の附属小学校として開校した那覇の「大道小学校」の一角に「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」があったことがわかるひめゆりの像があります。周辺には「姫百合橋」や「ひめゆり通り」など「ひめゆり」にちなんだ名前が残っています。

しかし学校での教育は現在と異なり、「お国のために」と軍国教育や皇民化教育が徹底的に行われていました。
天皇に忠実な「日本国民」へと同化させるための教育政策。少女たちも軍国少女に育っていった。ひめゆり平和祈念資料館内では御真影(天皇・皇后の写真)が教室に飾られている写真や宮城(皇居)遙拝などの様子が展示されている。
学校生活も沖縄戦が近づくにつれ、なぎなたや竹槍の訓練。更に陣地の構築作業にも駆り出され、通常の授業が段々と行えなくなっていきます。
悲劇の始まり看護隊として動員
沖縄戦が始まる前、日本軍(第32軍)は兵力不足を補うため、女学生を看護要員、男子学生を鉄血勤皇隊などの後方部隊に動員することを決めます。そして1945年が明けてすぐ女学生達は厳しい看護訓練に明け暮れました。
沖縄戦が始まろうとしている1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍南風原病院壕に看護要員として動員されました。
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前述したように当時「ひめゆり学徒隊」ではなく単に「学生さん」や「生徒さん」と呼ばれていたそうです。ただしここでは「ひめゆり学徒隊」として紹介します。
40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容した壕の中で、彼女たちは懸命に働きます。
主な業務は軍医や衛生兵、看護婦などの手伝いでしたが、 負傷兵の世話や手術の補佐に加えて、食糧運搬や水汲みなど、砲爆撃の下での危険な仕事もありました。
戦況が悪化し、重傷者が増えると、死体埋葬が日常茶飯事となりました。
死体を担架に乗せ、艦砲の合間を縫って、艦砲穴に一、二、三の掛け声で投げ込み、全身が隠れる位まで土をかけて埋めていった。
渡久山ハルさんの証言 引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』
アメリカ軍が差し迫った1945年5月25日、沖縄陸軍病院は沖縄本島南部への撤退が命じられます。
彼女たちは、砲弾降り注ぐ中、歩ける患者に手を貸し、傷ついた友人を担架に乗せ、薬品などを背負って、南部へと移動しました。
また重傷を負った学友や兵士たちは、病院壕に残さざるをえませんでした。
そして命からがら、沖縄本島南部の移動した各陸軍病院壕(病院といっても自然洞窟ガマを利用した非常に簡素なもの)に到着するのです。
撤退の途中で死亡者もでています。南部撤退後は各陸軍病院壕(「伊原第一外科壕」「伊原第三外科壕」「山城本部壕」「糸洲第二外科壕」など)に別れて配属された。
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「ひめゆり学徒隊」に解散命令が出て死傷者を出す
6月18日各壕へ「ひめゆり学徒隊」に衝撃の命令が出されます。
解散命令です。
病院自体が既に機能していないので、各自自らの判断で行動せよということを意味しました。
「お国のためだ必ず勝つ」と言って一緒にここまで頑張ってきたのに、一体これからどうするのかと悔しさと怒りがこみあげてきた
宮良ルリさんの証言より引用:『沖縄戦の全女子学徒隊』
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解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、「鉄の暴風」と呼ばれた雨のように降りそそぐ砲弾の中、昼間はソテツやアダンの茂みに身をひそめ、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かいました。
負傷した学友を助けて歩いていく生徒
傷ついた体を引きずりながら逃げる生徒
重傷で動けずにその場に倒れる生徒
砲弾に吹き飛ばされていく生徒
行き場を失い父母の名を叫びながら死んでいく生徒
生徒たちはアメリカ軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人もいました。
最終的に「ひめゆり学徒隊」は教師・学徒240人のうち136人が亡くなりました。実に半数以上が亡くなっているという恐ろしい死亡率です。
そして解散命令がでた次の日から約1週間の間に多数の犠牲を出しているのです(死亡者のうち実に80%以上がこの間に集中している)。
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下記「ひめゆり学徒隊」の時系列です。
- 1945年明けてから看護教育が始まる。
- 1945年3月23日 生徒222名・引率の教師18名の計240名が「沖縄陸軍南風原病院壕」に配属される。
- 3月26日 アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し沖縄戦が始まる 壕の中で必死に看護活動をする
- 5月25日 陸軍病院に南部への撤退命令がだされ、動ける兵隊と共に南部へ向かう
- 6月18日 解散命令が出される
- 6月19日、伊原第三外科壕はアメリカ軍の攻撃を受け、壕内にいたひめゆり学徒を含む80人あまりが犠牲になったとされる
- 6月後半 解散命令後、アメリカ軍の攻撃や自決などで多くの人が亡くなる。(解散命令から約1週間の間に死亡者のうち実に80%以上が亡くなる)
「伊原第三外科壕」の跡に建てられた「ひめゆりの塔」

1945年6月19日 「伊原第三外科壕」がアメリカ軍の攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が亡くなり、ひめゆり学徒隊の中で最も多くの犠牲者がでた場所がこの壕です。
この時の攻撃の様子を生存者の宮良ルリさんが証言しています。
私たちが(壕の)奥へ移動した瞬間、いきなり、ダーン、ダーン、ダーンという音とともに壕の中は真っ白い煙が、まるで入道雲のようにもくもくとたちこめました
宮良ルリさんの証言より引用:『私のひめゆり戦記』
「伊原第三外科壕」の上に、1946年「ひめゆりの塔」は建てられました。最初の「ひめゆりの塔」は目立たないですが献花台のすぐ後ろにあります。ガイドをする際も私は必ずこの塔を最初にご案内します。
最初の「ひめゆりの塔」は戦後すぐ建てられたということもあり、物資が不足していることから高さ100センチの簡素なものです。
戦後で物資が乏しい中、石灰岩を切り抜いて、せめて潜没した方を弔おうという意思と悲しみがこの塔から伝わってきます。
最初の「ひめゆりの塔」周辺には生き残った引率教師が戦死した教え子を悼んで詠んだ「いわまくらの牌」や(右手前)、戦後間もない頃に建てられた「刻銘碑」なども並んでいます。

「ひめゆりの塔」は魂魄之塔を建立した金城和真さんや真和志村の人々によって建立された。金城和真さんは娘二人を「ひめゆり学徒隊」で亡くしている(次女の貞子さんはこの壕で亡くなっている。)
✔️魂魄之塔と金城和信さんについては以下の記事で詳しく紹介しています
現在の「ひめゆりの塔」は、1957年に、納骨堂を包む形で百合のレリーフと刻銘版が取り付けられ綺麗に大きくなりました。
1日中参拝客が絶えない「ひめゆりの塔」
二度と学生や若者・全ての人が戦場に行くことがないよう、平和を祈りたいですね。
女学生の体験と平和の尊さを伝える「ひめゆり平和祈念資料館」

「ひめゆりの塔」参拝後に是非訪れて欲しいのが「ひめゆり平和祈念資料館」
「ひめゆり学徒隊」の生徒達の学校生活から病院壕での看護活動。さらには解散後からの各生徒の足取りなど、とてもわかりやすく時系列で展示しております。
特に見ていただきたいのが第4展示室「鎮魂」。
沖縄戦で亡くなった227人の生徒と教師の写真と名前が飾られ、人柄についても触れることができます。
まさに鎮魂の空間で、写真は一人一人が生きた証でもあります。
なぜ普通の学生・先生達は戦場に行かなければならなかったのか、なぜ死ななければいけなかったのか、そして防ぐことはできなかったのか、壁にかけられた微笑む彼女達の写真を見ながら色々考えさせられる場所です。
「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿るモデルコースを以下記事で紹介しています。彼女たちの足跡を辿る事でより「ひめゆり学徒隊」の実相がわかりますので、ぜひ色んな場所に訪れてください。
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ひめゆり学徒隊を含む全女子学徒隊の証言集
生き残った女子学徒が、二度と戦争を繰り返さぬよう、そして亡くなった学友たちの生きた証を残したいと自らの体験をまとめた証言本。
ひめゆり学徒隊だけではなく、白梅学徒隊、など多くの学徒隊の証言がでてきて、こんなにも多くの学徒隊が動員されたことに驚くことでしょう。
平和な時代であれば青春を謳歌したはずの普通の女子学生。二度と戦争を繰り返してはいけない!という強い思いがこの本を通じてつよく強く伝わる一冊です。
【伊原第三外科壕・ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」
- 住所
- 沖縄県糸満市字伊原671-1
- 駐車場
- あり
- 電話番号(お問い合わせ先 ひめゆり平和祈念資料館)
- 098-997-2100
- 営業時間
- 午前9:00~午後5:25※入館受付は午後5:00まで ※ひめゆりの塔は、資料館閉館時もご来場いただけます
- 定休日
- なし年中無休
- ホームページ
- https://www.himeyuri.or.jp/
- 入場料
- 大人¥450 高校生¥250 中学生・小学生¥150

