~VOL16~南風原町喜屋武 数々の悲劇をうんだ「沖縄陸軍南風原病院壕」

壕(ガマ)の中には国や行政が管理し、現在でも保存状態が良く入れる壕やガマがいくつかあります。
今回はその一つ南風原町が管理、一般開放している「沖縄陸軍病院南風原壕」を紹介します。

沖縄戦当時数々の悲劇をうんだ「沖縄陸軍南風原病院壕」

「沖縄陸軍病院」はもともと元々那覇市の開南中学に所在しておりました。1944年10月10日の「十十空襲」で被害をうけ、南風原村(現南風原町)の国民学校に移転しました。「十十空襲」以来、陸軍指導の下、黄金森周辺で実に30の横穴壕が作られました。

解説:十十空襲
1944年10月10日那覇を中心に米軍が行った大規模な空襲。攻撃目標は飛行場と船舶や軍施設でしたが、那覇市では民間居住地域にも焼夷弾による攻撃を加え、大きな被害がでた。
この空襲は、後の沖縄戦の「地形情報」を知る目的もあった。

すぐ傍の津嘉山に陸軍の「第32軍司令部豪」が作られていたので、陸軍にとって南風原が非常に重要だったということがわかります。沖縄戦開始直前に、陸軍病院は各壕へ移りました。

南風原町によると、広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄 師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒隊)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員され500名を超える人たちが働くという、とても大規模の病院壕でした。

1945年4月1日以降、患者は増え規模も増大していきます。

負傷兵でいっぱいになった、壕内には血と膿の臭いが充満し、医療品不足から麻酔なしの手術をしないで行われ、悲鳴と嘆きが壕内に響き渡っておりました。「ひめゆり学徒隊」も炊事から医療従事、死亡した患者を壕外に運搬など徐々に過酷な任務をしていくようになりました。

1945年5月下旬には陸軍第32軍司令部は摩文仁(糸満市)への撤退が決定し、沖縄陸軍病院にも撤退命令が出されました。その際、重傷患者には青酸カリが配られ、自決の強要が行われたました。

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比較的、軽症な患者(もちろんひめゆり学徒隊も含む)はそのまま南部へと撤退し、戦闘を継続。更なる悲劇をうんでいきます。

戦跡として全国初めて町の「文化財」に指定される

壕内は暗く、狭くとても息苦しくなります。自分がここで生活をすることを想像してみると、本当に怖くなります。そして、壕から出ると外の明るさに生きていると実感します。

戦争が遠くなりかけている昨今、当時の人々の暮らしや、過酷さを想像するのが難しくなってきましたが、この壕は身をもって体験することができる貴重な壕です。戦争という愚かな行為を二度しない為に、是非入壕して欲しいと思います。

また周辺にはいたるところに戦跡がありますので、是非色々探して見てください。「南風原文化センター」には当時の様子を再現した壕内部や、証言など貴重な資料がありますので、こちらもおススメです。

南風原は歴史教育・平和教育が盛んと聞きます。それがこの壕を文化財として指定し、「いつまでも後世に伝えていくんだ」という町の意思がしっかりくみ取れます。

是非そういう文化財が一つでも増えてくれるのを願うばかりです。

【沖縄陸軍南風原病院壕】

住所
沖縄県島尻郡南風原町字喜屋武257(南風原町文化センター)
駐車場
あり
電話番号
098-889-7399(南風原町文化センター)
定休日
水曜日

コロナ禍で入壕できない場合がございますので、必ず南風原文化センターにご確認ください。