沖縄戦において日米最後の激戦地である糸満市摩文仁。
摩文仁には現在平和祈念公園が整備され、広く慰霊の場所として認知されています。
公園内にあるのが、「平和の礎(いしじ)」です。
「平和の礎」は沖縄戦に関連する全て(24万以上)の戦死者が一人一人国籍を問わず刻名されている碑のことです。
本記事では「平和の礎」の概要について解説していきます。
「平和の礎」とはわかりやすく解説
「平和の礎」は沖縄戦において亡くなった全戦没者の名前が刻名されています。
建物の基礎の「礎(いしずえ)」を、沖縄の方言で「礎(いしじ)」ということに由来しており、ゆるぎない平和への想いを込めて名付けられました。2024年現在、242,225名の人が刻名されています。
引用:沖縄県ホームページ
沖縄戦においてという解釈が「沖縄県民」と「沖縄県以外の出身者」では異なります。
例えば、「沖縄県民」の場合、沖縄戦の前年に起こった「十十空襲」や「対馬丸事件」なども含みます。さらにもっと遡った戦争関連での死者も刻名されています。
まとめると以下のようになります。
沖縄県民の場合
沖縄県民(出身者)は、1931年の満州事変から1945年9月7日の降伏調印式後1年以内に戦争(沖縄戦に関わらず)が原因で概ね一年以内に死亡した者が対象者になります。
沖縄戦の犠牲者だけではなく、「15年戦争」と言われる満州事変から太平洋戦争までの犠牲者が刻名されているのが特徴です。
ですので、沖縄戦で亡くなった以上の人が刻名されているのです。
沖縄県民以外の場合
沖縄県民以外は概ね以下の通りです。
1945年3月26日のアメリカ軍の沖縄上陸(阿嘉島)から、1945年9月7日の降伏調印式の後1年以内に沖縄県内の区域内で死亡した者が対象になります。
園内マップ
以下は平和記念公園のホームページですが、メイン通路を左側に沖縄県出身者、右側はそれ以外の出身者の碑が並んでいます。ぜひ訪れる際の参考にしてください。
当時日本の植民地だった朝鮮半島や台湾出身者、また敵国のアメリカ・イギリスの戦死者が刻名されているのもこの礎の特徴です。
毎年増え続ける刻名者 〜空白の碑が問いかけるものとは〜
駐車場の一番近い刻名版には名前も何もかかれていない、まっさらな刻名版が存在します。
なぜまっさらな刻名版が増えていくのか?
理由は毎年新たに沖縄戦関連の犠牲者が判明するからです。
刻名者は年々増え続けています。
県によると2024年は181名の方が追加されました。また二重刻名等で2名の方が削除されています。
県内出身者が24人県外は東京都や宮城県など157人であわせて181人と県内外問わず、まだまだこれだけの人数が刻名されるのです。
沖縄戦は戸籍が全て燃えてしまったこと、あまりにも大きな犠牲者がでたことで、戦死者の全貌はいまだ不明なままです。
毎年新たなことが判明していくので、刻名者の数は毎年変動していくことでしょう。
「平和の礎」には名前がわからない刻名者も
刻名を見てみると「〇〇の長男」や「〇〇の祖母」といったような、名前がわかならい刻名者も数多くいます。
さきほど紹介したように、沖縄戦は戸籍が全て燃えてしまったことや、また名前をつける前に亡くなってしまった小さな赤ちゃんなどが考えられます。
それでもこの世に生きた証ということで、名前はないですが刻名されているのです。
このように名前がわからない刻名者は約300名ほどいると言われています。
その他名前をよく見ると、家族であろう同じ苗字の人がたくさん刻名されているのを見かけます。
おそらく家族総出で避難中に亡くなってしまった、また一家全滅しまったご家族ということが推測できます。
このような礎を見るだけでも住民を巻き込んだ戦いの凄惨さがわかります。
慰霊の日には大勢の人が訪れる「平和の礎」
6月23日の慰霊の日には、毎年多くの方が慰霊に訪れます。
そこに刻まれた名前に花をたむけ、指先でなぞり、語りかける遺族をたくさん見かけます。遺骨はありませんが、まるで本人がそこにいるかのように。
中には小さい孫も連れて家族総出で、手を合わせてる姿も見かけます。
刻まれた名前に指先をなぞりながら、二度と戦争が起こらないようにと祈り続けます…
【平和の礎(いしじ)】
- 住所
- 沖縄県糸満市字摩文仁444番地(平和記念公園内にあり)
- 電話番号
- 098-997-2765
- 公園開放時間
- 午前8~午後10時
- 駐車場
- あり