沖縄戦が迫るなか、多くの沖縄県民が県外への疎開を余儀なくされました。
子どもたちもまた、家族と離れ、疎開船に乗り込みます。しかし、当時の沖縄近海はすでに戦場となっており、海上も危険性が広がっていました。
沖縄県民が乗船した戦時遭難船舶(アメリカ軍のよって沈められた疎開船等)は26隻に及ぶとされ、その中でも最も多くの犠牲者を出したのが「対馬丸」です。 1944年8月22日、学童疎開船・対馬丸はアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈され、学童を含む1,484名もの命が失われました。
なぜ子どもたちは疎開することになったのでしょうか。そして、なぜ対馬丸は沈没したのでしょうか。
本記事では、対馬丸事件の経緯や当時の状況をわかりやすく解説するとともに、事件の記憶を後世へ伝える「対馬丸記念館」をご紹介します。
多くの児童が犠牲になった対馬丸事件とは?わかりやすく解説
対馬丸事件とはどのような事件だったのでしょうか?ここからわかりやすく解説します。
沖縄戦の前年から県外疎開が進められる
冒頭で紹介したように、沖縄戦が始まる前年から、児童や高齢者などの非戦闘員を県外へ避難させる疎開政策が進められました。
1944年7月、日本の絶対国防圏とされていたサイパン島がアメリカ軍によって占領されます。これにより、沖縄などの南西諸島への侵攻が現実味を帯びたことから、日本政府は沖縄県を含む南西諸島の老幼婦女子約10万人を県外へ疎開させる方針を決定しました。
これを受けて沖縄県は現地の日本軍と協議し、児童の集団疎開を急速に進めます。そして1944年7月19日、「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。
1944年(昭和19年)7月に沖縄県が発令した、米軍の沖縄上陸に備えて児童を学校単位で県外(主に九州)へ避難させるための基本方針と手続きを定めた通達のこと。対象は、国民学校初等科三年生から六年生までとされた。
こうして多くの疎開船が九州などへ向けて出航していきました。しかし、その頃の沖縄近海はすでに安全な海ではありませんでした。 アメリカ軍の潜水艦が日本軍の輸送船を狙って活動しており、多くの船舶が撃沈されていたのです。
そのような状況のなかで発生したのが「対馬丸事件」でした。
児童が乗った「対馬丸」がアメリカの潜水艦によって沈めらる
1944年8月21日、学童疎開船「対馬丸」は那覇港を出港しました。
船内には疎開する児童や引率教師、一般住民など合わせて1,788人が乗船していました。
一方「対馬丸」は疎開船として使用される前に、上海から沖縄へ約3,000人の日本軍兵士を輸送していました。そのためアメリカ軍からは軍事輸送に関わる船舶と認識されていたと考えられています。
当時の沖縄近海は、アメリカ軍潜水艦が日本軍の補給路を遮断するため活発に活動していました。さらに、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読していたことから、「対馬丸」の航行情報も把握していたとされています。
そして、「対馬丸」を追跡していたのがアメリカ軍潜水艦「ボーフィン号」でした。
船内は窓のない船倉に多くの人々が詰め込まれ、船のにおいや体臭がこもる蒸し暑い環境でした。人で埋め尽くされた二段棚では横になることも難しく、高波による船酔いに苦しむ子どもたちも少なくありませんでした。
1944年8月22日深夜、ボーフィン号が発射した魚雷が対馬丸に命中します。
攻撃は多くの乗船者が眠っていた時間帯であり、船はわずか10分ほどで沈没したといわれています。逃げる間もなく多くの人が船倉に取り残されました。
海へ投げ出された人々も、接近していた台風の影響による高波にのみ込まれ、多くの命が失われたのです。
生き残った人々を待っていた「箝口令」
真夜中の海へ投げ出された人々は、周囲に浮かぶ木材や船の残骸に必死にしがみつきながら、生き延びようとしました。
翌日以降、近くを航行していた漁船などによる救助が始まります。しかし、救助船に発見されなかった人々は数日間にわたる漂流を余儀なくされました。
ようやく救出された生存者たちでしたが、その後警察や憲兵から、対馬丸沈没の事実を決して口外しないよう厳しく命じられたのです。
当時の日本軍は、この事実が広まることで疎開政策への批判が高まり、国民の戦意にも影響すると考えていました。そのため、生存者や遺族に対して厳しい箝口令を敷き、事件について語ることを禁じたのです。
太平洋戦争中などに旧日本軍が戦争遂行に不利な情報や国民の戦意を喪失させるような出来事を、国民や遺族に口外しないよう強制した情報統制のこと
生還した喜びも束の間、彼らは新たな苦しみを抱えることになります。
この対馬丸事件で学童784人を含む1,484人が死亡しました。しかしこの犠牲者数はあくまでも推測であり正しい犠牲者数は今なおわかっていません。
対馬丸事件の悲劇と平和を伝える「対馬丸記念館」

「対馬丸記念館」は、対馬丸事件で犠牲となった子どもたちや民間人の記憶を後世へ伝え、戦争の悲惨さと平和の大切さを学ぶための施設です。
館内では、対馬丸事件が発生した背景から沈没当日の様子、生存者たちが体験した苦難までを、パネルやイラスト、映像資料などを通してわかりやすく知ることができます。
特に印象的なのが、1階に展示されている犠牲者の遺影です。
写真一枚一枚を見ていると、犠牲者には家族がいて、友人がいて、それぞれの人生を歩んでいた一人ひとりの人間だったことが改めて気づくことができます。そしてこれから華やかな人生が待っていたかと思うと胸が締め付けられます。
現在展示されている遺影は、関係者やご遺族の協力によって少しずつ増えています。しかし、その数は今なお全犠牲者の4分の1程度にとどまっています。
沖縄戦によって多くの写真や資料が焼失したことや、ご遺族の高齢化により新たな情報収集が難しくなっていることが大きな理由だそうです。収集は難しとわかっていながらどこかもどかしい気持ちになります。
それでも犠牲者に想いを馳せながら、将来ある子供たちが多く亡くなった「対馬丸事件」を考え、戦争は二度と起こしてはいけないという気持ちになります。
「対馬丸事件」の犠牲者を祀る「小桜の塔」

「対馬丸事件」の犠牲者を祀る慰霊塔「小桜の塔」が「対馬丸記念館」のすぐ裏手にあります。
付近には「波上宮」やビーチもあるので、賑わっていますが「小桜の塔」は静かに佇んでます。

「小桜の塔」は愛知県のすずしろ子供会(会長 河合桂・当時)が、沖縄に子どものための慰霊塔がないので、自分たちの力で是非作りたいと一円募金を始め、愛知県知事をはじめ同県の大きな協力によって沖縄に贈られたそうです。 また塔は船首を那覇港に向け、旭が丘公園の展望台を挟み対馬丸記念館の反対側に建っている。
小桜の塔の説明版より
また「小桜の塔」が旭ヶ丘公園内には「対馬丸」以外の戦時遭難船舶(25隻の船舶)の犠牲者を偲んだ「海鳴りの像」もあります。ぜひ「対馬丸記念館」と「小桜の塔」と「海なりの像」も訪れてみてください。
「対馬丸事件」は沖縄戦が始まる約8か月前に起きた出来事です。
しかし、沖縄戦へと続く悲しい出来事の一つであることは間違いありません。 そして、この事件でわかることは、戦争で最も大きな犠牲を強いられるのは、子どもたちや民間人といった弱い立場の人々だということです。
「対馬丸事件」から8か月後に始まる沖縄戦でも、多くの子どもたちが(平和の礎に刻銘された県出身死没者のうち、最も多かった年齢は「1歳」と「18歳」)命を落とすことになるのです。
【対馬丸記念館(小桜の塔)】
- 住所
- 沖縄県那覇市若狭1丁目25番37号
- 駐車場
- あり
- 電話番号
- 098-941-3515
- 定休日
- 毎週木曜日・年末年始
- ホームページ
- https://www.tsushimamaru.or.jp/
- 入場料
- 大人¥500 中高生¥300 小学生¥100

