– Vol 49 – 「第24師団第2野戦病院壕」豊見城市豊見城の戦争遺跡 グスク中腹に残る積徳学徒隊が従事した壕

※この記事には広告を含む場合があります

当サイトの記事には広告として、アフィリエイトプログラムが使用されています。アフィリエイトによって得られた収益は、より質の高い情報を提供するために当サイトの運営費に充てています。

当サイトの円滑な運営のため、読者の方にはご理解とご協力をよろしくお願いします。

戦跡マップを開く

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森 米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕 シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

豊見城市にある豊見城グスク(豊見城城跡)は、琉球王国成立以前の三山時代(3つの国で争っていた)に後の南山の王、「汪応祖(わんおうそ)」によって築かれた歴史ある城跡です。

琉球の歴史が息づく「豊見城城跡」の中腹には、沖縄戦時日本軍の「第24師団第2野戦病院壕」が作られ、くの負傷兵の治療が行われました

この壕に勤務していたのは「積徳高等女学校」の生徒によって編成された女子学徒隊「積徳学徒隊(別名ふじ学徒隊)」です。

本記事では、「積徳学徒隊」が「第24師団第2野戦病院壕」どのような看護活動をしたのか、また現在野戦病院壕の跡について写真を交えながらわかりやすく紹介します。

積徳学徒隊が最初に勤務した「第24師団第2野戦病院壕」

「第24師団第2野戦病院壕」は、日本軍第24師団(通称「山部隊」)が豊見城城跡東端の崖沿いに構築した野戦病院壕です。

この壕は、アメリカ軍の沖縄本島上陸直前に建設されました。

建設には多くの住民も動員され、総延長は約300メートルに及びます。壕内には軍医や衛生兵など約200人が配属され、多数の負傷兵を受け入れる野戦病院として運用されました。

この野戦病院で看護活動に従事したのが、冒頭でも紹介した女子学徒隊「積徳学徒隊」です。積徳学徒隊は、那覇市にあった私立「積徳高等女学校」の生徒によって編成され、沖縄戦では看護要員として動員されました。

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島へ上陸すると、浦添市や西原町など本島中部の激戦地から、多くの負傷兵が「第24師団第2野戦病院壕」へ次々と運び込まれました。

壕内には最大で約600人の患者が収容されたとされ、野戦病院は重傷者であふれ、極めて厳しい環境となっていました。

「積徳学徒隊」の任務は、負傷兵の看護だけではなく、炊事や水汲み、傷病兵の搬送、包帯の交換など、その役割は多岐にわたりました。

さらに戦況が悪化すると、亡くなった兵士の埋葬まで担うようになります。医療物資も不足する過酷な状況の中、学徒たちは昼夜を問わず壕内を駆け回り、懸命に負傷兵の看護にあたりました。

手当の甲斐なく死んで負傷兵の為に、悲しみのあまり啜り泣くグループもいた。日を追って戦闘が激しくなるにつれ、前線からの負傷兵が引きも切らず運ばれてきた。準備してあった病床だけでは間に合わないので、空いた場所にどんどん病床を敷設した。そのうち二段ベッドも満員になった。

大湾富子(旧姓真栄田)さんの証言:『沖縄戦の全女子学徒隊』から抜粋

その頃、遺体の処理もほとんど学徒隊が行なっていた。遺体は毛布でくるんで砲弾あとのくぼ地に投げてくるのである。翌朝また他の遺体を運んだ時昨夕運んだ穴にまた砲弾が落ち、無惨にも死体は散乱しているあり様で、あの悲惨な状況は今だに忘れられず夢の中で時々うなされることもある。

小波津照子(旧姓津波古)さんの証言:『沖縄戦の全女子学徒隊』から抜粋

他にも野戦病院壕内の様子を生存者が語ったNHKの映像が残されています。あわせてご覧下さい。

NHK豊見城野戦病院壕【戦跡を歩く】➡︎

他の女子学徒隊と同様に、過酷な看護活動を続けていたっ「積徳学徒隊」は、1945年5月27日、戦況の悪化により日本軍第32軍司令部が首里から南部・摩文仁へ撤退したことに伴い、糸満市糸洲にある壕へ移動することになりました。

「豊見城城跡」の今も残る「第24師団第2野戦病院壕」

那覇市中心部から車で約15分。琉球の歴史を今に伝える「豊見城城跡」の中腹には、「第24師団第2野戦病院壕」の遺構が静かに残されています。

長らく「豊見城城跡」は立ち入りが制限され、野戦病院壕も見学することができませんでした。しかし、2026年に城跡全体の整備が完了し、現在では壕の入口まで歩いて見学できるようになっています。なお、安全上の理由から壕内へ立ち入ることはできません。

園内は遊歩道や案内板が整備されており、初めて訪れる方でも比較的迷うことなく「第24師団第2野戦病院壕」へ向かうことができます。

途中には、1982年に建立された「患者合祀碑」があります。この碑には、第24師団第2野戦病院壕へ搬送され、治療の甲斐なく亡くなった多くの負傷兵が祀られています。

「患者合祀碑」
「患者合祀碑」
「患者合祀碑」付近の案内板
「患者合祀碑」付近の案内板
この下の階段を降りると壕がある

「患者合祀碑」付近には真新しい案内板があり、階段を下っていくと「第24師団第2野戦病院壕」があります。

「第24師団第2野戦病院壕」入り口

現在、公開されているのは壕の入り口1箇所のみ。他の入り口は崩壊しており、中に入ると60メートルほど先で崩壊してるようです。

「患者合祀碑」
「患者合祀碑」付近の案内板
この下の階段を降りると壕がある

以前は、十分な整備がされておらず、半ば放置されている様子でしたが、現在は案内板や見学路が整備され、戦跡として保存・公開するための環境が整えられています。

一方で、沖縄には今も草木に覆われ、崩落や開発によって消滅の危機にある戦跡が数多く残されています。「第24師団第2野戦病院壕」のように適切な保存が行われる戦跡は決して多くありません

「豊見城城跡」から望む那覇の街並みと美しい青い空は、戦時中の風景からは想像できないほど穏やかです。しかし、この美しい景色の下で多くの命が失われた歴史があったことを忘れてはいけません。

帰り際に「豊見城城跡」から見る夏の美しい空と那覇の景色に今の平和を感謝しつつ戦跡を後にしました。

【第24師団第2野戦病院壕】

住所
沖縄県豊見城市豊見城(豊見城城跡内)
駐車場
駐車スペースあり

沖縄戦の戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に沖縄戦の戦跡を案内して欲しいというご希望がございましたら、
ぜひお気軽にお問い合わせください。

\ 実際に上記の戦争遺跡をまわりたい方はこちら /

ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
今ならひと目でわかる戦跡マップ付き