– VOL25 -「歩兵第三十二連隊終焉の地碑」糸満市真栄里の戦争遺跡 終戦を知らずに戦った部隊の慰霊碑

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本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森 米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

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「終戦を知らずに戦った」と聞くとグアム島の「横井さん」や、フィリピンの「小野田さん」を思い浮かべる人が多いと思いますが、沖縄戦も終戦後も戦っていた部隊が存在していました。

沖縄戦は1945年6月23日、日本軍第32軍司令官「牛島満中将」が自決し、日本軍の組織的な抵抗が終了しました。

しかし、第32軍司令部の最後の打電が、(本土防衛の時間稼ぎのため)最後まで抵抗を命じたものであったため、残存兵力の散発的な抵抗は続きました。

中でも、精鋭と知られた「山形歩兵第32連隊」(以下歩兵第32連隊)は沖縄戦終結はおろか、日本の終戦後も投降せず1945年8月29日まで戦いました。

「第32連隊」はどのような部隊だったのか、どのように投降していったのか紹介していきます。

山形の部隊「歩兵第32連隊」

1896年に創設され、日露戦争、日中戦争を戦った歴史ある部隊です。

故郷山形城が「霞城」と呼ばれていた為、別名「霞城部隊」と呼ばれていました。

沖縄戦の前年の1944年に所属していた「第24師団」ともに、沖縄に配属されました。

沖縄戦が始まると日本軍の司令部がある首里の北側の守備を任されます。激戦となっていた前田高地で戦い、西原村(現西原町)では棚原高地を奪うなど戦果をあげましたが、1945年5月下旬日本軍の首里撤退とともに、「歩兵第32連隊」も南部に撤退しています。

南部撤退後の6月初旬、「歩兵第32連隊」は南部のガマを使用し、アメリカ軍に徹底抗戦をします。

尚、一部のガマは元々住民の避難壕でしたが、中の住民を追い出し接収しました。
このあたりは「歩兵第32連隊」の証言でも残っています。

終戦後も戦いつづけた「歩兵第32連隊」

圧倒的な兵力でアメリカ軍は沖縄本島南部を制圧していきます。

6月23日、抵抗を続けていた日本軍は、司令官の「牛島満中将」が自決し、組織的な戦闘は終結します。

しかし日本軍の司令部は最後まで抵抗を命じたので「歩兵第32連隊」はその後も戦い続けます。

「歩兵第32連隊」は生き残った連隊長のもと陣地と化したガマを堅持し、完全な指揮系統を保ったままゲリラ戦を展開し、アメリカ軍を悩ませます。

実はこの頃になると、アメリカ軍の攻撃が緩和し、夜間はほとんど攻撃がなかったので、食料の確保や補充、陣地の補強などをしていたようです。

その後7月後半には沖縄本島北部国頭へ(日本軍が沖縄本島北部から援軍にくると噂が流れ合流し戦うため)移動しようしていました。

まだまだ戦意は衰えておらず、8月15日の終戦後も日本軍の勝利を信じて戦ってたようです。

下記、その後の部隊の投降までの流れです。

  • 8月18日、アメリカ軍から投下されたビラに日本降伏について記されていた。
  • 8月22日、連隊の第1大隊長の「伊東大尉」がアメリカ軍の軍使と接触し、連隊長に報告
  • 8月24日、アメリカ軍司令部に「伊東大尉」が軍使として赴き、録音された玉音放送を聞く。アメリカ軍に投降していた「八原大佐」(第32軍の参謀。沖縄戦の戦略持久作戦を立案。実質日本軍のナンバー3)と会い、降伏は真実と確認。  
  • 8月25日、連隊長に報告し、連隊長は降伏を決意。
  • 8月26日、「伊東大尉」がアメリカ軍司令部に赴き降伏に合意
  • 8月28日、軍旗奉焼
  • 8月29日、武装解除(連隊の残存将兵は約300名)
    ※参考:「伊東大尉」の証言や様々な資料のもと時系列に並べています。

尚、「伊東大尉」は戦後、「歩兵第32連隊」について証言が残っております。「第32連隊」がどのように戦い、どのように投降したのか、そして「伊東大尉」のひととなりも知ることができるので、是非ご視聴ください。

外部リンクNHKアーカイブス【伊東大尉の証言】

「歩兵第32連隊」の終焉の地

「歩兵第32連隊」が軍旗を奉焼した地には「歩兵第32連隊」の終焉の地として、「歩兵第32連隊終焉の地碑」が建立されました。

また道路を挟んで反対側には、「歩兵第32連隊」の使用した壕も残っており、施錠されて入ることはできませんが、上から壕を覗くことができます。

壕は「山形の塔」の敷地内にあり、周辺は「歩兵第32連隊」関連の戦跡や慰霊碑があります。

近くには、「白梅の塔」や「バックナーの慰霊碑」もあり、周辺が激戦地だったことがわかります。

終戦後も戦い続けた「歩兵第32連隊」。しかし終戦後も戦い続けた部隊・兵隊はたくさんいました。

冒頭紹介した「横井さん」や「小野田さん」、私がかつてガイドをしていたパラオペリリュー島の部隊等々。

その人たちにとっての終戦は、決して6月23日や8月15日ではないのです。

尚、NHKでは「歩兵第32連隊」の生存した人たちの証言をドキュメンタリーでまとめておりますので、「伊東大尉」の証言とあわせて是非ご視聴ください。

外部リンクNHKアーカイブス【[証言記録 兵士たちの戦争]沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~】

【歩兵第三十二連隊終焉の地の碑】

住所
沖縄県糸満市真栄里1789
駐車場
坂を下った先にある「白梅の塔」にあり

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