沖縄県糸満市真栄里の一帯は、さとうきび畑や大小様々な畑が広がり、のどかで沖縄らしい景色が広がっています。特に天気が良いと、真っ青な空とさとうきび畑がとても絵になります。
この真栄里周辺は昔から景色が変わらず、恐らく戦前ものどかな景色が広がっていたのだと想像します。
しかし沖縄戦では真栄里周辺は激戦地となりました。
それを物語るように、周辺には「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」などの慰霊碑があり、日米双方で被害が大きかったことがわかります。
真栄里は沖縄戦終盤、南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の間で激戦になり、一般住民、日米双方の兵士が多数亡くなりました。
戦後、真栄里の住民が散らばっていた12,000柱を収集し、祀ったのが今回紹介する「栄里之塔」です。
戦後、住民が建てた「栄里之塔」
「栄里之塔」は終戦後、真栄里地区の住民が散らばる遺骨を集めて納骨堂を建立し、その横に「栄里之塔」と刻まれた碑が建てられました。その後、遺骨は那覇市識名の「戦没者中央納骨堂」を経て糸満市摩文仁の「国立沖縄戦没者墓苑」に集められ、現在の塔は昭和43年に改修されたものです。
※読み方は「えいりのとう」のです。
「栄里之塔」は真栄里の地名から名付けられました。
碑文を見ると歩兵第22連隊の最期の地であり、「バックナー中将」が戦死した旨も記載されていたことから、改めて周辺が激戦地だったことがわかります。
尚、歩兵第22連隊は、愛媛県出身者の方が多く本島中部の激戦地や首里周辺で激戦を戦った部隊です。
日本軍の南部撤退の際に、真栄里に展開しアメリカ軍に抵抗しました。戦後も一部の兵がゲリラ戦を展開していました。
余談ですが、現在この連隊の生き残りの方で「小城正」元大尉が生存し、沖縄戦の本を出版しております。
「栄里之塔」は非常に管理されており、私が見学した際も掃除をしていました。
12,000柱・・・。戦後住民が戻ると、荒廃した自分たちの土地に多くの遺骨が野ざらしにされていたことに衝撃や悲しみがあったことでしょう。
糸満市は「栄里之塔」以外にも地元の人が戦後遺骨を集めた場所・慰霊碑が複数確認されております。また改めてこれらの慰霊碑を紹介したいと思います。
兵隊や住民の遺骨を埋葬した地元の方々に思いに馳せながら、沖縄戦で亡くなった全ての人に「栄里之塔」で祈りを捧げました。
尚、周辺には「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」があるので、一度に回ると時間的に効率が良いのでオススメです。
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「栄里之塔」
- 住所
- 沖縄県糸満市真栄里
- 駐車場
- 塔の横に車を止められるスペースあり