沖縄戦での都道府県別の戦死者数は、北海道が沖縄県に次いで2番目に多く、多くの北海道出身の部隊が沖縄戦を戦いました。
沖縄に配置された2つの師団の一つ、第24師団に北海道出身者が多かったことが理由の一つです。
今回紹介する歩兵第89連隊は、第24師団の隷下部隊(れいかと読みます。第24師団に属していた)で連隊本部は旭川にありました。
歩兵第89連隊は沖縄戦をどのように戦ったのでしょうか。
歩兵第89連隊の慰霊碑を尋ねて、足跡を辿ってみました。
北海道旭川の部隊「歩兵第89連隊」
歩兵第89連隊は旭川に連隊本部がありました。
日本一の最低気温を記録したこともある極寒の旭川。沖縄戦前は満州に配属されていましたが、次なる激戦地が予想される亜熱帯の沖縄にやってきました。
兵士の証言によると、将校以外は沖縄に行くことは知らされず、沖縄に到着して初めてわかったそうです。もっとも歩兵第89連隊だけではなく(軍事機密のため)、ほとんどの部隊は行き先を知らされずに沖縄にきています。
沖縄の人にとって、北海道の人は珍しくこちらも証言によると住民から非常に興味をもたれたそうです。
ああ、もう、会うたびにね、北海道から来た兵隊さんだからね、
「北海道の話を聞かせてください」ってね、みんな学生あたりが集まってくるんですよ。
NHK「兵士の証言アーカイブス」南義雄さんの証言より
兵隊の方も、同じ日本でも、北海道と沖縄で気候や植物・文化が異なることに驚いたようです。
当初沖縄本島南部に配属された歩兵第89連隊
沖縄戦開戦当時、本当南部の島尻地区に配備され、港川(現在の八重瀬町)からのアメリカ軍上陸に備えました。
この時点での総員は2876名。
アメリカ軍の活発な動きから、日本軍は本島南部港川からの上陸も考えての配備でした。
しかしそれはアメリカ軍の囮作戦で、結局港川からは上陸はありません。アメリカ軍が本島中部西海岸から上陸を開始した後も、半月ほどは後方部隊として南部に留まりました。
4月後半いよいよアメリカ軍と日本軍の主力が激戦を繰り広げている首里戦線に、第89連隊も移動命令がでます。
1944年4月29日に第89連隊は首里防衛ラインの一つ、運玉森(現在の与那原町と西原町)に出撃します。
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激しい戦闘の運玉森地区の戦い
首里防衛ラインの東側(現在の西原町と与那原町)は、高台や崖がいくつもあり天然の要害になっており、日本軍は強固な陣地を築きアメリカ軍に抵抗します。
5月4日日本軍はアメリカ軍に対して、初めて大規模な総攻撃にでます。
日本軍全体の総攻撃中心の部隊は歩兵第89連隊でした。
歩兵第89連隊は5月4日には運玉森周辺(呉屋・翁長・小波津一帯)で総攻撃をしかけ、死闘を繰り広げたが、失敗に終わり犠牲が増大しました。
日本軍の総攻撃は激しいもので、一部の資料によると5月4日の日本軍全体の砲撃数は、アメリカ軍が太平洋戦線で受けたことがない規模となる13,000発とされる。
5月5日日本軍全体でおびただしい犠牲者を出し、総攻撃は失敗。中止に追い込まれました。
尚、この攻撃の死者数は総務省のホームページによると以下の犠牲がでました。
この総攻撃で歩兵89連隊第1大隊、第3大隊の2,000人のうち、殆どの将兵が戦死し、生存者は負傷者を含めて約100名程だった。
参照:総務省西原町における戦災の状況(沖縄県)より
西原村では沖縄戦時このように激しい戦闘が行われ、住民も巻き込まれていきました。
西原村の戦没率は46.9%で、この数字は沖縄県平均の25%をはるかに上回る高い率となっています。
住民の犠牲者と聞くと、本島南部のイメージが強いですが、上記の戦闘経過から本島中部の西原村でも犠牲者が多いのが実情です。
激しい戦争の裏には住民が巻き込まれているということも忘れてはいけません。
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日本軍の南部撤退
日本軍の攻勢失敗後も、首里東部の要衝運玉森でアメリカ軍の猛攻を凌いでいましたが、5月27日に日本軍第32軍が南部撤退し、それに従い歩兵第89連隊も南部に撤退します。
撤退後南部の与座岳に布陣。
総員2876名内、南部撤退出来たのは全体の約40%と言われており、半分以上の兵隊を失っての布陣でした。
南部に侵攻するアメリカ軍の最前線で攻撃を受け続け、必死に侵攻を遅らせます。
6月15日指揮下部隊とも連絡が途絶え、6月19日与座岳周辺の新垣の壕で軍旗を奉焼し、金山連隊長が自決。その他多くの将兵も自決もしくは戦死しました。
(4)が金山均歩兵第89連隊長。
沖縄公文書館蔵
尚、沖縄戦は6月23日に日本軍の指揮官牛島司令官が自決し、終結します。
連隊長が自決した場所に建つ「歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地」の碑
与座岳の麓、糸満市字新垣の金山連隊長が自決した壕の近くに「歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地」の碑が建立されています。
パークヒルズゴルフ場の横の道を走り、鉄鋼会社?の横の道を曲がって100メートルほど走ると、道に案内板が見えてきます。
案内板周辺は広いスペースがあるので、車を止め案内板通りに道を曲がって5分ほどすると、右側に更に案内板が現れます。
車道から綺麗に草が刈り取られた道を進んでいくと、「歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地」が現れます。
更にそこから左に進むと金山連隊長の自決の壕もあります。
自決の壕は金網が貼ってあり、中には入れませんが中の様子は懐中電灯を照らすとわかります。
人里離れた場所ですが、案内板や碑は立派で道中も非常に綺麗に整備されていました。
※草木が生い茂って辿り着くのが大変だったと、一部のブログに書いてありましたが、全くそんなことはありませんでした。筆者が訪れたのは12月でしたので夏場はわかりません。
このような静かな場所に、立派な慰霊碑が建っており少々驚きましたが、しっかり管理する人がいれば綺麗に残るということがわかりました。
周辺は激戦地だったこともあり、慰霊碑がたくさんありますが。
しかしここは観光スポットから外れていたり、道がわかりずらかったりと訪れる人は本当に少ないと思います。
だからこそ忘れ去られないようにしっかり管理し、少しでも訪れる人がいることを願うばかりです。
【「歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地」の碑】
- 住所
- 沖縄県糸満市新垣(Googleマップコード:26.119695, 127.699855)
- 駐車場
- なしだが付近にスペースあり
- 電話番号
- なし