〜VOL32〜 糸満市山城の戦争遺跡 ひめゆり学徒隊もいた陸軍病院壕「山城本部壕(サキアブ)」

※この記事には広告を含む場合があります

当サイトの記事には広告として、アフィリエイトプログラムが使用されています。アフィリエイトによって得られた収益は、より質の高い情報を提供するために当サイトの運営費に充てています。

当サイトの円滑な運営のため、読者の方にはご理解とご協力をよろしくお願いします。

糸満市伊原や山城は病院壕が多く残っています。

伊原や山城周辺には「伊原第一外科壕」「糸洲第二外科壕」「伊原第三外科壕」など多くの陸軍病院壕の機能が、うつされました。

今でもそれらの病院壕は残っており、実際足を運んで見ることができます。

その一つが陸軍病院の本部「山城本部壕」別名サキアブです。

「山城本部壕」にはどのような人がいたのか?本部壕なので、整備されていたのか?沖縄戦で何が起きたのか?など本記事で紹介します。

陸軍病院の本部の機能としての「山城本部壕」

山城本部壕は地元の山城の人からは「サキアブ」と呼ばれていた自然洞窟でした。

沖縄戦がまさに始まる1945年3月23日に山城の一部の住民が避難しています。

どのガマも(特に南部)最初は地元住民の避難壕として使用されていたことが多かったようですが、1945年5月以降の日本軍の南部撤退により、地元住民が追い出されて日本軍の陣地や病院壕などに使われています。

サキアブも日本軍が南部撤退にあわせて、元いた住民は追い出され病院壕として本部の機能が置かれました。

そこには陸軍病院があった南風原から激しい砲弾を潜り抜けたひめゆりの少女14名もいました。

山城本部壕(別名サキアブ 以下山城本部壕で統一)での彼女たちの主な任務は各壕へ指令を伝令すること。本部の生徒は、外科壕配属の生徒たちとは違い、看護活動はしていません。

それでも砲弾が飛び交う中、命懸けの伝令を行っていきます。

「山城本部壕」の経緯

陸軍病院壕の本部が山城に置かれた後の、経緯を紹介していきます。

陸軍本部壕とはいえ、奥行き30メートルほどの手つかずの小さな自然洞窟で、元々本部壕として準備したものではないので、陸軍病院としての機能は既に失われていました。

ひめゆりの生徒たち14名もここに入り、主に近くの壕へ伝令をするのが仕事でした。

5月後半に到着した頃の伊原周辺は戦闘らしい戦闘もなく、とても静かだったようです。

伊原は敵機も飛ばず、艦砲もなく、実に静かで木々の緑は雨に洗われ輝いていた。久しぶりの平和だった。落ち着いて食事を作れる幸せに嬉々としていた。

ひめゆり学徒隊、本村ツルさんの証言     

ところが、6月10日以降、伊原にもアメリカ軍が押し寄せ猛攻撃が始まります。

下記、6月10日以降の山城本部壕の動きです。

  • 1945年6月14日 壕入り口に被弾。他壕から伝令にきていたひめゆりの生徒合わせ多くの病院関係者が死傷
  • 6月15日 廣池文吉病院長死亡、各壕へ分散命令が出される
  • 6月18日 佐藤病院長代行より、同行していた西平先生に学徒隊解散命令がでる
  • 6月18日 各壕に解散命令が届く

6月14日のアメリカ軍の攻撃で14、15人が一瞬に死傷。

他壕から伝令にきていたひめゆり学徒隊の宜保さんと安座間さんも含まれていました。

宜保はすぐには見当たらなかった。表に出たかと思って坂を登っていくと壕壁に向かって首のない死骸が横たわっていた。それが宜保の変わり果てた姿だった。

引率教員、西平英夫先生の証言

6月15日、廣池病院長が死亡したため、分散命令がでてひめゆり学徒隊は「山城本部壕」をでることになりました。

生徒たちは全員堅固で環境の良い「伊原第三外科壕」を希望しましたが、叶えられず「伊原第一外科壕」や「大田壕」とに分かれることになります。

行き先は生徒たちでジャンケンで決め、勝った方は「伊原第三外科壕」へ。

しかし、そのジャンケンが生死をわけることになるのです。

「伊原第三外科壕」はその後6月19日にアメリカ軍の攻撃を受け、「山城本部壕」から移った6名の生徒は全員死亡死亡しました。

「伊原第三外科壕」は現在のひめゆりの塔が建てられている場所です。

安全と言われた、「伊原第三外科壕」に移った生徒は全員死亡。もうどこに行っても安全な場所などありませんでした。
また宜保さんのように数分前まで元気だった生徒。しかし一瞬にして生死が分かれ、そしてサヨナラも言えず亡くなってしまう、沖縄戦の異様さ、戦争の異常さ。本当に戦争は恐ろしいです。

解散命令はここからでる

6月18日各壕へ「ひめゆり学徒隊」や病院関係者に衝撃の命令が出されます。

そう解散命令です。

解散命令とは軍から離れ、各自自らの判断で行動せよということを意味しました

病院の解散、学徒隊の解散はこの本部壕から出され、各壕に伝わりました。

解散命令が出た後は、各壕の生徒たちは行くあてもないまま「鉄の暴風」と呼ばれた雨のように降りそそぐ砲弾の中、逃げ惑います。ひめゆり学徒隊136人の死亡者のうち、実に80%が解散命令がでた次の日から約1週間の間に亡くなっているのです。

ひめゆりの塔の近くにひっそりと残る「山城本部壕」

多くの方が訪れる「ひめゆりの塔」から車で5分、直線距離にして約1キロ。

のどかな農地の中に、「山城本部壕」はあります。

「ひめゆりの塔」とはうって変わり、観光客の方は皆無。

しかし駐車場は整備され、敷地内もベンチや慰霊碑などがあります。

実際、壕の入り口までは階段らしきものがあるので、降りることができます。

入り口から壕の奥までは、30メートルほどで奥行きは深くありません。

6月14日壕の入り口が被弾し、病院長やひめゆり学徒隊2名を含む、14名〜15名が死傷しています。

中には遺品らしきものがあったりと、当時の様子がわかります。

ただし、降った雨が、ガマに流れていくので、足元が汚れる可能性大です。

以上のことから中には入るのはおすすめしません。入口で手を合わせましょう。

平和学習で「山城本部壕」を利用することがありますが、まだまだ訪れる人は多くはありません。「ひめゆりの塔」周辺には多くの方が死傷した壕がたくさんあるということを覚えておいください。

「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿るモデルコースを以下記事で紹介しています。「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿る事でより実相がわかりますので、是非色んな場所に訪れてください。

山城本部壕」

住所
沖縄県糸満市伊原279
山城集落近くにあるが、住所は伊原
駐車場
あり
※駐車場から徒歩3分 管理人などはいません

戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に戦跡を案内して欲しいというご希望がございましたら、
ぜひお気軽にお問い合わせください。

ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
戦跡を回る際のお供に是非