– VOL33 -「伊原第一外科壕」糸満市伊原の戦争遺跡 ひめゆり学徒隊もう一つの外科壕

※この記事には広告を含む場合があります

当サイトの記事には広告として、アフィリエイトプログラムが使用されています。アフィリエイトによって得られた収益は、より質の高い情報を提供するために当サイトの運営費に充てています。

当サイトの円滑な運営のため、読者の方にはご理解とご協力をよろしくお願いします。

戦跡マップを開く

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森 米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕 シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

本島中北部戦跡マップ

米軍上陸地モニュメント 米軍上陸の地の碑 チビチリガマ シムクガマ 掩体壕 義烈空挺隊玉砕の碑 戦闘指揮所 旧西原村役場壕 石塀の弾痕 嘉数公園 前田高地 運玉森

本島南部戦跡マップ

シュガーローフヒル 第32軍司令部壕跡 旧海軍司令部壕 沖縄陸軍病院蝿南風原壕 津嘉山壕 巌部隊司令部壕 シッポウジヌガマ 弁々岳通信所 楚辺の陣地壕 一中健児の塔 バックナー中将戦死之跡 山形の塔 歩兵第三十二連隊終焉の地碑 白梅之塔 栄里之塔 魂魄之塔 轟の壕 歩兵第八十九連隊玉砕終焉之地 ひめゆりの塔 山城本部壕 伊原第一外科壕 ひめゆり学徒散華の跡 アブチラガマ(糸数壕) 山雨の塔 富盛の石彫大獅子 ハーフムーン 平和の礎 糸洲第二外科壕 アンディラガマ 沖縄師範健児之塔 糸洲の壕(ウッカーガマ) 第24師団第一野戦病院手術場壕

修学旅行生や観光客で賑わう、「伊原第三外科壕」の跡地にある「ひめゆりの塔」。

周辺には観光施設も立ち並ぶ、すぐ近くにひめゆり学徒隊がいたもう一つの外科壕がひっそりと残っているのをご存知でしょうか?

壕の名前は「伊原第一外科壕」沖縄戦時の陸軍病院の一部です。

周辺にはひめゆり学徒隊がいた壕が複数ありますがその一つです。

ひめゆりの塔が建てられているのは、「伊原第三外科壕」ひめゆりの塔に関しては以下記事をご覧ください。また近くには一部のひめゆり学徒隊がいた「山城本部壕」にも近くに残っています。

ほとんど人が訪れることがない伊原第一外科壕。

ここでは沖縄戦時どのようなことが起きたのでしょうか?ひめゆり学徒隊は壕内でどのように活動していたのでしょうか?

ひめゆり学徒隊の生存者の証言をもとに紹介していきます。

南部撤退後に病院機能が移った病院壕

元々、伊原に移ってくる前の第一外科壕などの病院機能は、中部の南風原や南部の糸数に置かれていました。

ひめゆり学徒隊は主に南風原陸軍病院壕や糸数アブチラガマ(南風原陸軍病院の分室)で看護の任務につき、重症患者の看護をしていました。伊原第一外科壕に移った生徒は、元々「糸数アブチラガマ」で勤務していた人が大半でした。

ところが、1945年5月後半にアメリカ軍が日本軍の司令部がある首里に迫ってくると、各陸軍病院に南部への撤退命令が出されます。

第一外科壕も、南部糸満の伊原に撤退命令が出されます。

ひめゆり学徒隊の生徒は砲弾降り注ぐ中、命からがら南風原や糸数から移ってくるのです。

ひめゆり資料館にも紹介されていますが、南部撤退時には生徒たちは、歩ける患者に手を貸し、傷ついた友人を担架に乗せ、薬品などを背負って、南部へと移動しました。重傷を負った学友や兵士たちは、病院壕に残さざるをえませんでした。

ようやく辿り着いたのが、伊原の壕。

それもほとんどの人の手が加えられていない、自然壕(ガマ)でした。

「伊原第一外科壕」の経緯

ようやく辿り着いた壕で「伊原第一外科壕」として病院は再開しますが、医薬品不足などで病院としての機能は既に失われていました。

糸数アブチラガマから南部に撤退を命令されたひめゆり学徒隊16名をはじめ、病院関係者と連れて来られた重症患者と、南風原陸軍病院津嘉山経理部と第一外科での勤務者が入壕しました。

証言によれば、壕の入口にカマド、粗末ながらも二段ベッドを作り置いていました。ベッドには梯子もあったそうです。水は壕の南にあった共同井戸を使用しました。

これは追い出された住民が使用していた物のようです。

その後の伊原第一外科壕の経緯です。

  • 1945年5月後半 陸軍病院南部撤退共に伊原第一外科壕に入壕
  • 6月17日 壕入り口に被弾。ひめゆり学徒隊の学徒3名死亡。その他病院関係者も死傷
  • 6月18日 山城本部壕から解散命令が出され、第一外科壕にも届く
  • 6月19日 ひめゆり学徒隊の生徒負傷者9名を残し、壕を脱出する

6月17日の攻撃の様子を生存者の上原当美子さんが証言しております。この壕でおこった生々しい出来事にぜひ耳を傾けて下さい。

上原当美子さんの証言はこちら ➡︎

多くの方が亡くなり、何とか壕を出たひめゆり学徒隊の生徒たちも、砲弾降り注ぐ中、地獄の戦場を彷徨い続けることになるのです。

賑わうひめゆりの塔のすぐ近くにひっそり残る「伊原第一外科壕」

冒頭紹介しましたが、賑わうひめゆりの塔のすぐ近く、周囲を畑に囲まれた場所に「伊原第一外科壕」は残っています。

ひめゆりの塔から、国道331号線を那覇方面に300メートルほど向かうと、外科壕入り口の案内碑が見えてくるので、矢印の方角に入っていきます。

第一外科壕の入り口

周囲は畑ですが、そのまま道なりに100m進んでいくと木が生い茂っている場所がありますが、そこが「伊原第一外科壕」です。

第一外科壕と碑があるので、すぐにわかります。

下の石板は正直汚れていてよく読めません。

ここから階段を下りていくと、壕の入り口が現れます。

壕内に入ることは可能ですが、入り口にはロープや鎖がなく、壕奥には水が溜まっているので、入壕はおすすめはしません。

壕の入り口から見学するのが良いでしょう。

壕の入り口

畑の中に突然現れる戦跡。

そこだけ時間が止まったように、突然当時の壕が現れ、驚くことでしょう。

沖縄の他の戦跡もそうですが、忘れ去られたかのようにひっそりと残っています。

特にこの場所は、近くの「ひめゆりの塔」が観光客で賑わい、その対照な光景から余計そう思うはずです。

「ひめゆりの塔」や「ひめゆり平和祈念資料館」は、戦争の悲惨さを伝える、貴重な施設であると私は思います。

一方で、その場所一つに注目が集まり、まるでそこだけが「ひめゆり学徒隊がいた場所」「悲惨なことが起きた場所」と錯覚してしまう可能性があります。

ひめゆり平和祈念資料館はしっかりと他の壕のことも説明してくれていますが、実際訪れる方で第一外科壕の存在を知って帰る人は少ないと思います。

もちろん全ての慰霊碑や戦跡に訪れることができないことは重々承知していますが、「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた方や本ページを見て頂いた方に、せめて「このような場所があったんだな」と認識してもらえれば幸いです。

そして「ひめゆりの塔」を訪れたい際には是非こちらの壕も訪れて欲しいと切に願います。

沖縄戦を風化させないことは、戦跡を風化させないことからはじまるのではないでしょうか。

「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿るモデルコースを以下記事で紹介しています。「ひめゆり学徒隊」の足跡を辿る事でより実相がわかりますので、是非色んな場所に訪れてください。

【伊原第一外科壕】

住所
沖縄県糸満市字伊原212
駐車場
なし
※ひめゆりの塔周辺の駐車場に止めて、歩くのが最適。その際は是非、ひめゆりの塔にも参拝ください。

戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に戦跡を案内して欲しいというご希望がございましたら、
ぜひお気軽にお問い合わせください。

ひと目でわかる沖縄戦の戦跡一覧をリリース中
今ならひと目でわかる戦跡マップ付き