– VOL40 -「糸洲第二外科壕」糸満市糸洲の戦争遺跡 半ば埋もれかけている外科壕跡

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本島中北部戦跡マップ

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糸満市に糸洲付近には、沖縄戦に使用された壕が多く残っています。

「県庁最後の壕」と言われる「轟の壕」や女子学徒隊の「ふじ学徒隊」がいた「ウッカーガマ」などが付近にあります。いずれも徒歩圏内にあります。

いずれもあまり訪れる人が少なく、ひっそりと残っている戦争遺跡です。

特に本記事で紹介する「糸洲第二外科壕」は半分埋もれており、このままでは完全に崩落しそうな壕です。

一部の「ひめゆり学徒隊」もいた「糸洲第二外科壕」。

この壕はあまり証言が残っていないため、壕の詳細はわかっておらず、壕自体の存在も知られたのも40年前と比較的最近です。

実際にいた証言を紹介し、わかりうる範囲で「糸洲第二外科壕」を紹介します。

「沖縄陸軍病院第二外科壕」として利用された「糸洲第二外科壕」

「糸洲第二外科壕」は「沖縄陸軍病院第二外科壕」として利用され、負傷兵が運ばれました。

もともと「沖縄陸軍病院」は南風原や糸数アブチラガマにありましたが、戦況の悪化で日本軍が南部に撤退し、それにあわせて「沖縄陸軍病院」も南部に移動しました。

そして病院機能も「伊原第一外科壕」「山城本部壕」、ひめゆりの塔のある「伊原第三外科壕」に分散しました。

他にも「波平第一外科壕」や「大田豪」なども「沖縄陸軍病院」の壕として利用されました。

「糸洲第二外科壕」もこれらの壕同様に、南部移動の際に病院壕となります。

「糸洲第二外科壕」の様子は以下の通り証言が残っています。

第二外科壕の糸洲壕は非常に狭く、じめじめの壕で軍医、看護婦、衛生兵に学生80人ぐらいがひしめき合ってただ隠れていたんです。その頃、すでに患者の看護活動もなく、完全に陸軍病院の機能を失っていました。

照屋信子さんの証言:ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 展示と証言より抜粋

一部のひめゆり学徒隊がいた「糸洲第二外科壕」

「糸洲第二外科壕」には一部のひめゆりの生徒がいました。

生存者の「津波古ヒサ」さんやの証言が残っています。

私たちはですね、来てから2日目だったかな、6つの壕に分かれたんですけどもね。私は糸洲っていうところ。ずっと南の方ですけどもね。糸洲の壕にいたんですよ。第二外科はみんなそこにいたんですけどね。そこで解散命令を受けて。解散命令というよりは、私たちは、あれのときにはもう命令はちゃんとは聞いてないですね。とにかく馬乗りされて、壕が。壕の上に銃であれされて、がりがりがりがりやるんですよ。「そこから穴をあけて弾を落とすんだ」と言ってましたけどね。その朝はとても静で、だけど、弾も飛んで来ないし、「静かだね」って思ってたら、何か様子がおかしくなって、何かその辺までみんなもうアメリカの兵隊が来ているんだってことを聞く。しばらくしたら私の壕の上にもアメリカがいるんだってことでですね、みんな「静かに、静かに」って言ってんたんですが。

津波古ヒサさんの証言:NHKアーカイブスより

証言の中に攻撃とありますが、「糸洲第二外科壕」は1945年6月18日に米軍の馬乗り攻撃に遭い死傷者を出しています。

生存者の「照屋信子」さんが攻撃の様子を証言しています。

(6月18日正午ごろ)それからどのくらい時間がたったのでしょうか。不意にパンパンとすさまじい銃声が起こり、境内は黒煙に包まれパニック状態。「やられた、やられた」「助けて、助けて」壕内は騒然となり、様々な叫びがとびかっていました。

照屋信子さんの証言:ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック 展示と証言から抜粋

攻撃を受けたことにより、「糸洲第二外科壕」にいた学徒たちは「伊原第一外科壕」へ移動しています。

6月18日前後は、戦線が壕周辺にも及んでいたので命からがらの移動でした。

半分埋もれている「糸洲第二外科壕」

伊原第二外科壕

「糸洲第二外科壕」は糸満市の糸洲集落内にあります。国道からも近く、また「ひめゆりの塔」からも近い場所にあります。

集落内の道路に面しており、そこまで行きづらい場所でもありません。

壕内は入れません。

左側の赤いや屋根の休憩所を目指すのがおすすめです
左側の赤いや屋根の休憩所を目指すのがおすすめです
首位はのどかな風景が広がる(写真右側が休憩所)
首位はのどかな風景が広がる(写真右側が休憩所)

壕の周囲には、「陸軍病院第二外科壕」の碑や「ぬちどぅ宝(命こそ)」の碑が残っています。

陸軍病院第二外科壕
ぬちどぅ宝
解説:ぬちどぅ宝

沖縄の言葉で命こそ宝という意味
沖縄戦では「命どぅ宝」という言葉をかけられ、またその言葉を思い出し生き残ったという証言がある

現在、南部に移動した後の沖縄陸軍病院の壕で残っているのは、「伊原第一外科壕」「山城本部壕」、「伊原第三外科壕」「糸洲第二外科壕」。

しかし今回紹介した「糸洲第二外科壕」は半分埋もれており、「大田壕」と「波平第一外科壕」は完全に消失しました。

戦後80年近くが経ち、多くの壕が消失し、「糸洲第二外科壕」もこのまま埋もれてしまう可能性もあります。

今後沖縄戦の証言を直接聞く機会が減っていく中、無言で戦争の悲劇を語る戦跡は貴重です。

毎回言っていますが、沖縄戦を継承するため、戦争遺跡はなんとか保存してほしいと切に願います。

【糸洲第二外科壕】

住所
沖縄県糸満市糸洲1
駐車場
近くの休み場に1台ほど駐車スペースあり

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