– VOL47 – 「沖縄師範学校の門柱跡」 今も弾痕が残る門柱 那覇市首里当蔵町の戦争遺跡

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多くの観光客が訪れる首里城公園。

南国らしいカラフルな花々に囲まれ、再建された琉球王国時代の建物が美しく並ぶ、沖縄を代表する観光地です。

しかし、この首里城には、琉球王国の歴史とは別に、沖縄戦の記憶を伝える遺構も残されています。

首里城公園内の龍潭のほとりに、ひっそりと残る学校の門柱跡があります。これは戦前から戦中にかけてこの場所にあった「沖縄師範学校男子部」の門柱跡です。

近づいてよく見ると、門柱には弾痕が残っています。激しい戦闘が行われた沖縄戦の痕跡が、今も残されています。

「沖縄師範学校男子部」は、当時の沖縄における最高学府の一つでした。

本記事では、首里城公園に残る「沖縄師範学校男子部」の門柱跡と、その歴史について紹介します。

「沖縄師範学校男子部」は教員養成期間で当時の沖縄の最高学府

「沖縄師範学校男子部」は官立の教員養成期間で、大学や専門学校のない当時の沖縄では唯一の最高学府でもありました。

そのため県内・離島各地から教師を目指すために優秀な人が集まりました。

当時の師範教育では国家主義的教育政策に即応する教員養成が目指されました。

例えば、兵式体操が導入され、さらに「沖縄県立師範学校」(沖縄師範学校男子部の前身)では他県に先駆けて御真影が導入されるなど皇民化教育、軍国教育の重要な役割を担いました。

御真影

天皇や皇后の公式の肖像写真や肖像画を敬っていう言葉。御真影は学校の奉安殿(ほうあんでん)と言われた建物に安置。戦前に広く学校に飾られた。児童は奉安殿の前を通る際に最敬礼をすることが求められた。

天皇や皇后の公式の肖像写真や肖像画を敬っていう言葉。御真影は学校の奉安殿(ほうあんでん)と言われた建物に安置。戦前に広く学校に飾られた。児童は奉安殿の前を通る際に最敬礼をすることが求められた。

なお、学校は首里にあり、首里城のすぐ近くに(龍潭池のほとり)所在していました。今の沖縄県立芸術大学の場所にあり、今でも「旧沖縄師範学校正門門柱」として当時の門柱が残っています。

戦時色が強くなり、「師範鉄血勤皇隊」として動員

1944年沖縄守備軍第32軍が創設し沖縄にやってくると、校舎は接収され、その年の4月からは陣地構築などで授業がほとんど行われなくなりました。

同年12月からはすぐ近くの首里城地下に第32軍司令部壕を突貫工事で掘り続けました。

さらに第32軍司令部壕の工事と並行して自前の壕「留魂壕(りゅうこんごう)」が首里城の正殿の裏手に造成。

アメリカ軍上陸前夜、艦砲射撃激しくなると、ここを退避壕として、職員や学生の生活の場となっていきます。

今でも「留魂壕」の一部が首里城公園内に残っており数年前、一般に公開されるようになりました。

アメリカ軍が沖縄本島に開始をする前日1945年3月31日、「師範学校男子部」の全職員・学生が「師範鉄血勤皇隊」として動員され、第32軍の司令部の指揮下に入りました。

入隊式は、31日夕刻、軍司令部近くに構築してある留魂壕(師範学校の壕)前で終業式と同時に短期間で実施された
千早隊手記出版編集委員会編 沖縄師範学校生徒の実録より

その数386名。教師になる予定だった10代の学生が戦場に駆り出されていくのです。

そしてそれぞれ「師範隊本部」「千早隊」「斬込隊」「野戦築城隊」などに分けられました。

「沖縄師範学校女子部は」は「ひめゆり学徒隊」として動員されました。

その後の沖縄戦の師範学校生については以下の記事をご覧ください。

弾痕がある「沖縄師範学校男子部」の門柱跡

「沖縄師範学校男子部」の門柱跡
所々に弾痕が残る門柱

首里城公園内の龍潭のほとり、現在の沖縄県立芸術大学の場所に、戦前「沖縄師範学校男子部」がありました。敷地内には学生寮や附属小学校も併設されており、将来を嘱望された優秀な生徒が日々学業に励んでいました。

しかし沖縄戦によって校舎は壊滅し、戦後も後身となる学校がつくられなかったため、当時の遺構はほとんど残っていません。

その中で、沖縄県立芸術大学の敷地内には「沖縄師範学校男子部」の門柱跡が一部残されています。よく見ると弾痕も確認でき、沖縄戦の激しさを今に伝えています。

沖縄師範学校の碑
大学の中にあるので、柵の外から見学ください。

また、門柱の近くには碑も建てられています。

沖縄師範学校は、他県の師範学校のように新制国立大学の教員養成系学部へ改組されることはなく、戦後の新制大学にも継承されませんでした。

同窓会も高齢化により解散となり、「沖縄師範学校男子部」について知る機会は年々少なくなっています。

一方で、「沖縄師範学校女子部」はひめゆり学徒隊として知られ、資料館もあり現在でも多くの人に伝えられています。そのため、どうしても情報量に差が生まれている印象があります。

当時の沖縄には、男子校と女子校を合わせて21の旧制中学校・高等女学校がありました。そして、そのすべての学校から学徒が戦争に動員されたことも、改めてお伝えしておきたいと思います。

【沖縄師範学校男子部の門柱跡】

住所
沖縄県那覇市首里当蔵町1丁目
駐車場
あり
※首里城公園内の駐車場

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