今回から沖縄本島の南部の戦跡を紹介します。
沖縄本島南部は日本軍が撤退してきた後、民間人と軍人が混在したガマなどに立て篭もり徹底抗戦をします。戦況は激しさを増し、軍人だけではなく民間人にも多大な被害がでます。
一方、日本軍の首里撤退で、「戦争は終わった」と楽観視していたアメリカ軍は南部撤退をした日本軍を制圧するため、損害も増えていきアメリカ軍のトップの司令官が戦死するという、異常事態がおきます。
今回は南部の激しい戦いで戦死したアメリカ軍司令官、バックナー中将の碑を紹介します。
アメリカ軍司令官の死
アメリカ軍「サイモン・B・バックナー中将」(以下バックナー中将)は沖縄戦を指揮した司令官です。尚、日本軍の司令官は以前から紹介している「牛島満中将」です。
日本軍が1945年5月下旬に首里から本島南部へ撤退しましたが、日本軍の南部撤退後、沖縄戦の主戦場は本島南部へと移っていきます。
日本軍の戦力は沖縄戦当初から約4分の1に減ったとはいえ、南部の高台に陣地を構築し、激しく抵抗しました。
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激しい戦闘の最中、「バックナー中将」はよく前線を視察する司令官で、たびたび部下が「前線は危険」と諭しても聞き入れませんでした。
「バックナー中将」は自ら前線を視察して、作戦を練るタイプなのかもしれません。
沖縄戦も最終盤の6月18日、この日も喜屋武半島の真栄里(現在の糸満市)で視察を行っていましたが、日本軍の砲撃にあい戦死。実は戦死する当日も部下に危険と諭されていましたが、視察に出ていました。
日本軍はたびたび視察する「バックナー中将」を見ていたので、階級章から司令官と判明し、良く狙われていたとの証言があります。
尚、「バックナー中将」は1939年から始まった第二次世界大戦のアメリカ軍の中で、敵軍の攻撃によって戦死した者の中では最高位の階級(中将)をもつ軍人です。
解説:第二次世界大戦
1939年9月1日のドイツポーランド侵攻から、1945年9月2日の日本の降伏文書調印まで世界各地で行われた世界大戦。
日本とアメリカが戦った「太平洋戦争」は第二次世界大戦の局面の一つ。
常に後方の司令部で指揮している中将というポジションから、戦死するのは稀だったのでしょう。
危険を顧みず、前線へ視察する司令官はとても勇敢なのかもしれません。
享年58。
司令官だけではなく、アメリカ兵全体にも言えることですが、祖国に帰ることなく、遠い異国での戦死は非常に無念だったことでしょう。
現在、「バックナー中将」が戦死した場所には碑が建立されています。
「バックナー中将戦死之跡」の慰霊碑
糸満市の海側から少し中に入った真栄里に「バックナー中将戦死之跡」があります。
周辺はさとうきび畑が広がる典型的な沖縄本島南部の景色で、本当にここが激戦地だったのかと戸惑います。
しかし、周辺には「白梅の塔」や「歩兵第32連隊終焉の碑」など慰霊碑がたくさんあることから、慰霊碑の場所が激戦地だったということがわかります。
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慰霊碑の入り口にある、案内看板の横の階段が見えます。神社の石段のような、階段を約50段上がっていくと、いくつか慰霊碑があります。
十字架とその後ろに日本語で、「バックナー中将戦死之跡」と刻まれているのが、「バックナー中将」の慰霊碑となります。
当初、1952年にアメリカ軍の手により、碑が建立されましたが、その後キャンプフォスターの移設されたため、沖縄県の慰霊団体により現在の碑が建立されました。
碑がある場所は高台になっており、西側の海も見る事ができます。見晴らしが良いことから、当時も「バックナー中将」が視察場所に選んだのでしょう。
反対に日本軍からは標的にしやすかったのかもしれません。
ただ、「バックナー中将」の死に追いやった砲弾が誰から打ち込まれたのかハッキリわかっておらず、戦後「自分がうった」という人が現れたり、「小野さんという一等兵がうった」(※小野一等兵は厚労省の名簿で確認がとれない)という別の人の証言もあり、未だ謎に包まれています。
このあたりを書くと長くなるので割愛させて頂きますが、いずれにせよ、日米双方の最高司令官が死亡するという異常な事態となったのは確かであり、それほど沖縄戦は激しい戦いだったのです。
個人的にはアメリカ側から見た沖縄戦も知っていただきいたので、是非訪れて欲しい場所です。
アメリカ側から見た沖縄戦のおすすめの本 ユージン・B・スレッジ著:『ペリリュー・沖縄戦記』
アメリカ軍の司令官「バックナー中将」が戦死した後、1週間もたたないうちに日本軍の司令官「牛島満中将」が自決し、組織的な戦いは終了します。
しかし、その後も日本軍のゲリラ作戦は続き、兵士、民間人ともに犠牲者は増え続けるのです。
【バックナー中将戦死之跡の慰霊碑】
- 住所
- 沖縄県糸満市真栄里615
- 駐車場
- なし