– VOL41 -「アンディラガマ」糸満市真壁の戦争遺跡 千人壕と呼ばれた奥行きの広いガマ

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本島中北部戦跡マップ

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糸満市真壁は沖縄らしい瓦屋根の家々が立ち並び、周辺にはさとうきび畑や農地が広がる本島南部の典型的なのどかな景色が広がっています。

主要の県道以外は、車が少なくトラクターが走ってる光景は平和そのものです。

しかし沖縄戦当時、真壁周辺はこれより後方の摩文仁(日本軍の司令部)を守るため、日本軍の陣地がおかれ、さらには真壁の住民も多く取り残されました。

現在でも慰霊碑やガマや陣地壕が残っており、激しい戦闘があったことをうかがわせます。

本記事では、その中の一つ千人壕と呼ばれた「アンディラガマ」を紹介します。

「アンディラガマ」周辺には壕が複数あり、他にも「千人壕」と呼ばれた壕があります。これは地元の住民や他の地域からの避難民で多くきていたことから、情報が錯綜していたものと考えられます。

沖縄戦時、軍民雑居状態となった「アンディラガマ」

「アンディラガマ」は他の壕同様に、地元の住民の避難壕に指定され、多くの住民が避難していた壕です。

なお、「アンディラガマ」は千人壕というなからその名の通り、大きな自然洞窟で長さは250メートルと長大。収容可能人数も数百名以上は可能だったそうです。

ここでは真壁の住民していましたが、他にも近くの「アンガーガマ」や「ガンヌヤーガマ」にも避難していました。

すぐ近くには、日本軍の陣地壕があり、区長はその壕で聞いた情報を「大本営発表、航空母艦何隻沈没…」と住民に報告し住民はとても楽しみにしていたそうです。

この頃はまだ住民と日本軍の関係が良好だったことが伺えます。

壕内の住民の生活は、子供たちをむしろで寝かせ、食べ物を探しにでかけ、南瓜をとってきて皮を剥き生のままで食べさせていたとの証言が残っています。

ところが、1945年5月下旬、日本軍の首里から摩文仁撤退(南部撤退)にあわせて「野戦重砲第一連隊」が「アンディラガマ」に入壕するというので、住民は追い出され連隊本部が設置されました。

その後、6月20日にアメリカ軍に包囲され、「野戦重砲第一連隊」は全滅。

6月20日ごろ真壁一帯はアメリカ軍が占領します。

その後、行くあてもないままバラバラになった住民や、敗戦を信じない日本兵が再度「アンディラガマ」に命からがら辿り着き入壕し、軍民雑居状態になります。

このような逃げ場もない極限状態の中、日本軍による虐殺強要などの証言が残っています。さらに沖縄戦が終結した7月後半にはアメリカ軍の火炎放射器による攻撃で多くの犠牲者がでました。

現在も「アンディラガマ」周辺には慰霊碑が多くある

「アンディラガマ」周辺は戦後慰霊碑が多く建てられ、「アンディラガマ」も当時のまま残っています。

「アンディラガマ」に向かう道の手前の道路に面した広い敷地には、軍民両方の慰霊碑が建てられ、真壁の慰霊の地となっています。

いくつか下記に紹介します

✔️住民の慰霊塔萬華之塔(まんげのとう)

萬華之塔は真壁の住民が建立した慰霊塔です。碑文はありませんが、戦後まもなく真壁の人々が浄財を出し合い周辺にちらばる遺骨を集めて納骨しました。なお、沖縄各地にある地元住民が建てた慰霊碑や慰霊塔は納骨堂としての役目を負っているものがほとんどです。

萬華之塔
萬華之塔

✔️砲兵山吹之塔(萬華之塔の左側)

砲兵山吹之塔はこの地で全滅した野戦重砲兵第一連隊長山根忠大佐以下将兵739名を祀る慰霊碑です。昭和41(1966)年6月に同連隊の生存者によって建立されました。
慰霊碑が砲弾(実物)を取り囲み、皇族が部隊にいた関係で明治天皇の和歌が彫り込まれているのを見ると軍の慰霊碑だというのがすぐにわかります。
沖縄で住民の慰霊碑と軍の慰霊碑が隣合っているのは非常に珍しいことです。

他にも、「山3480終焉之地碑」や軍馬を祀っている「馬魂碑 」もあります。
沖縄戦では人間のみならず、馬もかなり過酷な戦いを強いられていたそうです。軍馬は物資輸送や武器輸送で重宝されていました。

砲兵山吹之塔
砲兵山吹之塔(萬華之塔の左側)

「アンディラガマ」は入り口まで行けるが奥は立ち入り禁止

「アンディラガマ」は萬華之塔の右側から伸びてる細い道を100メートルほど進むとガマの入り口に到着します。

この道を進む
この道を進む

季節によっては道中草が生い茂ってる箇所があり、蚊も多くいるので長袖や長ズボン虫除けがあった方がよいでしょう。

入り口付近は急になっているので、降りる際は要注意。

アンディラガマの入り口
アンディラガマの入り口

加えて、下がぬかるんでいるのでかなり滑りやすいです。

壕に入ると、入り口には当時住民が使っていたであろう食器類が散乱しており、当時住民がここに避難していたことがわかります。

壕内を奥に少し進むと、右側にこんもりとした高くなってる箇所があり、行けるのはそこまで。

その先は極端に狭くなっており、「立ち入り禁止」の看板が建っています。

長さ250メートルあり、多くの住民が避難していたことから、当時はこの先に避難していたのでしょう。

いぜれにせよ、入れるのは入り口から少しまでです。

「アンディラガマ」自体は「ひめゆりの塔」から車で10分ほど。那覇向けの大きな道の近くにありながら、訪れる人はほとんど見ません。

「ひめゆりの塔」や「白梅の塔」を立ち寄られたら、その後「アンディラガマ」に立ち寄ってみるのはいかがでしょうか。当時の住民がどういう所に避難していたか、実際に目にすることができます。

なお、周辺のは第24師団終焉の地「山雨の塔」や「白梅の塔」もあります。

【アンディラガマ】

住所
沖縄県糸満市真壁
駐車場
駐車スペースあり

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