沖縄本島南部、早咲きの桜が有名な八重瀬岳。
ここは毎年1月後半から2月にかけて、多くの観光客が桜を見に訪れます。
桜を見るには頂上付近まで、車や階段を利用しますが、その山の麓にぽっかりと空いた自然の壕(ガマ)があります。
ほとんどの方が、その壕に気付くことなく通り過ぎるかもしれませんが、そのガマは沖縄戦時に軍の病院壕「第24師団第一野戦病院壕」として利用されました。
病院壕内では、麻酔なしの手術が行われ、狭い壕内の環境は劣悪でした。そしてここで看護活動をしていたのが、当時10代だった「白梅学徒隊」でした。
本記事では「白梅学徒隊」が看護活動をした「第24師団第一野戦病院壕」について紹介します。
✔️白梅学徒隊については以下の記事で詳しく解説しています
沖縄戦時に作られた「第24師団第一野戦病院壕」
「第24師団第一野戦病院壕」は当時の証言から、八重瀬岳の中腹に5つの壕を掘り、縦横に掘り抜いた大きな壕だったようです。
病院の陣容は、病院長の安井二郎軍医少佐以下、軍医・衛生兵186人・陸軍看護婦。加えて、看護教育を受けていた「白梅学徒隊」46名でした。
南風原にある陸軍病院壕も、軍の病院ということでとても大規模なものでした。なお、第24師団の第二野戦病院は豊見城に作られ、「積徳学徒隊」の女子生徒が配属されます。
このように沖縄戦時には各陸軍病院壕に女学生が配属され、昼夜負傷兵の看護にあたります。
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「第24師団第一野戦病院壕」の壕内は多くの患者を収容できるようにと、竹で編んだ二段のベットが作られていました。
「白梅学徒隊」の任務は主に負傷兵の看護。
さらに手術壕勤務の学生は、手術の手伝いをすることでした。
その上薄暗い壕内では、ローソクの淡い光を頼りに、毎日のように切断手術が行われた。私たちは、その手術の手伝いをするのが重要な任務の一つだった。手術用の鋸でギリギリ音を立てながら足が切り落とされたり、弾丸の摘出もあった
上原初代さん(旧姓 垣花)の証言 『沖縄戦の女子学徒隊』より抜粋
切断した手足を箱詰めにして外に埋めにいくのも彼女たちの仕事。
患者の排泄物の処理や、ウジ虫の除去、危険な飯上げの作業など、昼夜働き続けるのです。
切断した手足は乾麺麩の空き箱(ブリキ製)に入れて置かれ、夜になると艦砲弾の穴に埋めに行く。それは学徒たちの役目である
武村豊さん(旧姓 桑江)の証言 『沖縄戦の女子学徒隊』より抜粋
戦況が悪化すると、重傷兵が続々運ばれ、そのためベット不足となり、4月下旬に新城、5月初旬には東風平に分院を開設します。
そして、日本軍が既に首里を放棄し、南部に戦線が移り始める6月4日、「白梅学徒隊」に解散命令が言い渡されます。
その後、彼女たちは戦場に放り出され、砲撃の中を逃げ惑いますが、一部の生徒が、国吉(糸満市)の病院壕に辿り着き迎えられて勤務を続けていく生徒たちもいます。
現在「白梅の塔」が建っているすぐそばの壕です。「白梅の塔」に関しては、以下の記事をご覧ください。
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今も八重瀬岳に残る「第24師団第一野戦病院壕」

今も八重瀬岳を訪れると、「第24師団第一野戦病院壕」の一部を見ることができます。
唯一残っているのは「第24師団第一野戦病院壕」の手術壕です。
本部壕や他の壕は全て埋没してしまいました。
八重瀬岳の駐車場から、頂上に行く階段のすぐ傍にある「白梅学徒病院壕跡」の白い標識を目印に、南国特有の背の高い生い茂った植物の中に入っていくと、壕口が姿を現します。

この壕が「第24師団第一野戦病院壕」の手術壕跡です。
現在は立ち入り禁止ですが、その名の通り壕内で過酷な手術が行われ、そして多くの人命が失われました。「白梅学徒隊」の生徒もここで看護活動をしていたのです。
入り口には、修学旅行生が置いていった、平和を祈る千羽鶴が納められていました。
しかし、何度も訪れている筆者でさえ、修学旅行生はおろか一般の方が見学している様子を見たことがありません。

ここは駐車場からすぐ、「白梅学徒隊」の説明版も近くにあるので、八重瀬岳を訪れる方はぜひ見学して欲しいと感じます。
【第24師団第一野戦病院壕】
- 住所
- 沖縄県島尻郡八重瀬町富盛1607
- 駐車場
- あり