
「十死零生」
特攻機で戦艦に突っ込む作戦と同じように、生きては帰れない特攻作戦が沖縄戦で行われていました。
その特攻作戦の任務はアメリカ軍に占領された飛行場にたった12機で強行着陸をし、飛行場を破壊して生き残った兵士でゲリラ戦を展開すること。
四面楚歌の中、まさしく「十死零生」の作戦でした。
作戦を行なった部隊名は「義烈空挺隊」
四面楚歌の中、滑走路に強行着陸した「義烈空挺隊」
先日紹介した掩体壕の横には「義烈空挺隊玉砕之地の碑」が立っています。
「義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)」とは敵に占領された飛行場に強行着陸をして、飛行機や飛行場の破壊を目的とした部隊です。
「義烈空挺隊」は、もともとサイパンに行く予定でしたが、サイパンまで辿り着くことは困難とされ、沖縄戦に投入されることが決まります。
「義烈空挺隊」は沖縄戦で初めての実戦となりました。
アメリカ軍が日本軍の司令部の首里に迫った5月24日、熊本の飛行場から飛びたった12機は沖縄を目指します。途中4機が機材不調で引き返しましたが、8機が沖縄上空まで飛来しました。
そのうち5機が北飛行場(読谷飛行場)まで接近。しかしアメリカ軍の対空砲火で撃墜され、1機だけがアメリカ軍に占領された北飛行場に胴体着陸しました。
アメリカ軍の中にたった1機。
それでも着陸と同時に乗員兵は飛行場に乱入し、手榴弾や拳銃で飛行機や空港設備を破壊しました。
一時、滑走路が使えなくなる戦果をあげるものの、この作戦で強行着陸をした乗員兵全員が亡くなりました。
生きて帰れない作戦としては、航空機による特攻「神風特別攻撃隊」の任務が思い浮かびますが、「義烈空挺隊」の任務も生きて帰れぬ壮絶な作戦でした。
「義烈空挺隊」のような特攻は一回限りでしたが、航空機による特攻作戦は沖縄戦で常時行われていくのです。
戦時中のニュースに義烈空挺団が出発する時の映像が残っていますので、ぜひご覧ください。
1945年5月米軍飛行場に強行着陸NHKアーカイブ(外部リンク)
「義烈空挺隊玉砕之地の碑」 のすぐ隣には「掩体壕」がある。
現在、「北飛行場」の遺構らしきものはありませんが、このあたり周辺は高台ですが、起伏がなく平坦な地形になっているため、滑走路の跡だったというのはイメージが容易につきます。
「義烈空挺隊玉砕之地の碑」は滑走の跡地(といっても現在はサトウキビ畑ですが、)に立っています。先日紹介した掩体壕のすぐ横にありますので、すぐに見つかると思います。
「掩体壕」を見に行く際は、ぜひ「義烈空挺隊玉砕之地の碑」にも目を向けて下さい。
✔️合わせて読みたい
【義烈空挺隊玉砕之碑】
- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2079
- 駐車場
- なし