那覇中心部から車で20分。那覇市のベッドタウンとして住宅地の開発が進む南風原町。しかし、少し住宅街から離れると、サトウキビ畑があり、沖縄の原風景が残っています。
また南風原町は沖縄本島で唯一海に面していない自治体です。そのせいか、丘が多く起伏のとんだ地形が広がっている印象です。
沖縄戦当時、南風原村(現南風原町)の丘にはいたるところに日本軍が作った壕がありました。
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第32軍司令部豪があった「津嘉山壕」
その丘(山?)の1つ津嘉山には(丘の名前は高津嘉山)沖縄戦が開戦する前に、第32軍の司令部壕がありました。
「津嘉山壕」 は「海軍司令部」同様にツルハシなどを利用し、手掘りで作られています。そして数か月ととても短い期間に作られました。壕の規模は全長約2キロで約3000人の兵士と学徒隊がが配置された県下最大の壕と言われていました。
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しかし、1944年10月10日の「十十空襲」で、地盤の弱さが露呈し、首里城に移りました。実際は完成途中で、まだまだ拡張予定だったとのことです。
壕の設備はさすがに司令部壕とあって、電灯線や排水溝も整備されていたということです。数か月でこのような大規模な施設を作るとなると、厳しい労働環境のもと作られたというのが簡単に想像できます。
尚、壕の全体図は南風原町が作成した案内が非常にわかりやすいです。
沖縄戦当時は、この壕も通常の壕として使用されていたようですが、どのような戦いがあったのかは資料を見つけられませんでした。
現在は面影もない「津嘉山壕」
戦後は長い間放置されていましたが、最近の国道505号線の工事の際、発掘調査が行われ、2006年に地元に公開されましたが、その後埋め戻されました。
現在は「津嘉山壕」周辺に大規模な公園を整備中ですが、発掘調査が行われた影響かまだ工事中のままです。
第32軍司令部壕は首里城のイメージが強いですが、こちらの「津嘉山壕」の方は認知度がまだまだ低いと思います。調べても文献や資料が非常に少ない印象でした。
沖縄戦開始前の日本軍の様子を知る貴重な戦跡として、保存・復元の動きが出るのを願うばかりです。
【津嘉山壕】
- 住所
- 沖縄県南風原町津嘉山1265−2
「津嘉山壕」は現在は壕の面影はございません。車で津嘉山の周辺をまわってみたり、近くに本部公園から津嘉山を見るのをおススメします。