那覇空港からモノレールで2駅にある小禄駅。旅行者の方も、那覇中心部にモノレールに行く際は、必ず通る当駅。
駅周辺は住宅街になっており、イオンなどの大型ショッピングセンターがあるものの、旅行者には馴染みがうすいかもしれません。
そんな小禄駅から徒歩7分にあるのが、カテーラムイ(寿山)「巌部隊司令部壕」です。
カテーラの意味は恐らくウチナーグチだと思われます。尚、ムイとは「森」という意味です。
海軍によって作られた「巌部隊司令部壕」
巌(いわを)部隊司令部壕は、1944年大田実少将率いる「海軍沖縄方面根拠地隊」指揮下の巌部隊として構築されたました。工事期間は8月から12月の4か月間で、この壕も他の壕同様に住民を動員し突貫工事で進められました。
大田実少将が指揮を執っていた場所は「巌部隊司令部壕」から車で10分ほどの、豊見城の司令部壕です。
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1945年6月4日鏡水海岸(現在の那覇空港周辺)から上陸したアメリカ軍は小禄飛行場を制圧しました。アメリカ軍は豊見城にある司令部壕を中心に包囲し、この壕も6月7頃アメリカ軍の猛攻をうけます。尚、6月6日には豊見城の司令部壕では、海軍のトップ大田実少将が「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で有名な訣別電報をうっています。
こうしたことから、6月7日時点で、既に海軍は組織的な戦いができていなかったのが想像できます。「巌部隊司令部壕」も数日で制圧されました。
6月13日には豊見城の海軍司令部壕が陥落し大田司令官は自決を遂げ、ここで海軍の組織的抵抗は終わりを遂げます。
「巌部隊司令部壕」の内部
総延長は350メートルで、豊見城の海軍司令部壕同様、司令部・兵員室・暗号室などが設けられておりました。坑口は8か所あったと言われ、中は坑道が複雑に作られておりました。
カテーラムイの海軍壕については戦死者等の情報がないため、はっきりとした数字は判明していませんが、ピーク時には将兵・避難民合わせて1,000名もの人が集まっていたと言われています。
現在は住宅街の中の公園として整備されいる。
現在は、多くの戦跡同様に静かな公園になっており、まさに市民の憩い場です。普通の公園内に、突然このような鉄格子で塞がれた壕があるというのは、とてもミスマッチのように思いますが、戦跡がそこら中に残っております沖縄ではあまり珍しくない光景なのかもしれません。
子供たちや近所に人たちはその光景があたりまえのように、坑口の前を通り過ぎておりました。
豊見城、小禄周辺は大田実少将率いる「海軍沖縄方面根拠地隊」によって多くの陣地壕が掘られました。周辺で、一番有名な海軍壕は豊見城の壕ですが、「巌司令部壕」のように海軍が掘った陣地壕はたくさんあります。
一つ一つ壕の歴史・作られた目的・被害は違いますので、是非様々な壕を見学し、その壕の歴史について触れてもらえたらと思います。
【巌部隊司令部壕】
- 住所
- 沖縄県那覇市田原3丁目4−1田原公園内
- 駐車場
- なし