〜VOL21〜 那覇市楚辺の戦争遺跡 那覇の中心にある戦跡「楚辺の陣地壕」

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沖縄県庁や那覇市役所、大型デパート「リウボウ」がある、那覇の中心部の一角にも沖縄戦の戦跡が残っています。

県庁や市役所から車でおよそ5分。賑やかな国際通りとは反対側にあり、細い路地の住宅街が広がっている那覇市楚辺の一角、城岳(グスクダケ)公園内に「楚辺の陣地壕」の跡があります。

この公園は那覇の中心部とは思えないほど、静かな公園です。平日の夕方に行ったのもあるかもしれませんが、誰も人がいませんでした。

琉球王朝時代には拝所があり、3月・6月・9月の祭祀のほか、旱魃時には雨乞いの祈願が行われたそうです。(公園内の案内板参照)公園内は御嶽というとこともあり、より一層静かな気がします。そういえば公園内に御嶽がある所はどこも静かな印象でした。

沖縄戦当時、那覇周辺は沖縄戦唯一の市街戦となりました。
周辺にはいくつもの陣地壕が作られたそうですが、城岳公園内にある陣地壕もその一つです。

沖縄戦唯一の市街戦

1945年5月18日に現在のおもろまち周辺の「シュガーローフ」がアメリカ軍に占領されると、首里の南側を(那覇方面)から包囲するため那覇に侵攻していきます。

那覇は「十十空襲」でほぼ市街地は消滅、港湾施設も多大な損害を受けており、両軍ともに戦略的な価値は低いと見られていましたが、日本軍はアメリカ軍の進行を遅らせる作戦をとり、市街戦となりました。

日本軍は那覇の高台に陣地を作り、アメリカ軍を攻撃し続けました。
その一つが、「楚辺の陣地壕」です。

あまり記録が残っていない「楚辺の陣地壕」

「楚辺の陣地壕」はいつどの部隊が作ったのか、詳細はわかっておりません。

アメリカ軍上陸後、空襲などで被害を受けていた県庁の避難先として、県庁に近い本壕に県職員が避難し、ここで業務をしていました。地元の住民の避難場所にもなっていたそうです。

その後、海軍から壕を使用したいとの申し出があったので、県庁の機能は那覇市真地に県庁壕の機能を移動させました。

那覇の市街戦で、城岳周辺に配属されたのは特設第6連隊でした。

特設という名がついている通り、戦況が風雲急を告げる中設立された部隊で後方部隊ということもあり、装備は不十分だったと考えられます。

装備が不十分だったにも関わらず、海軍と協力し陣地に潜んでは攻撃を繰り返しました。アメリカ軍は日本軍に手を焼き、多大な損害がでますが、ここでも数に優るアメリカ軍は壕や陣地を一つずつ落とし、城岳周辺を占領します。

しかし、これらの部隊の遅滞作戦により、首里の第32軍の主力部隊が南部へ撤退することができたのです。

現在は静かな公園内にある「楚辺の陣地壕」

壕の入り口は数箇所あったようですが、現在は写真の1箇所のみ確認がとれました。ここも「寿山(カテーラムイ)」の壕と同様に、壕の入り口に鉄格子がつけられていました。しかし、「寿山」とは違い説明板がありません。

壕は総延長300メートルで内部は2層になっており、複雑な構造をしてるようです。しかし先述したようにどの部隊が作ったかは判明しておりません。もちろん内部は入れません。

冒頭紹介しましたが、目と鼻の先に沖縄県庁や繁華街久茂地、大型デパート「リウボウ」があるのに「那覇の中心部でもこれほど静かな場所があるのか」というくらい静かです。国際通りとは雲泥の差です。

公園内には、沖縄県立第二中学校(現在の那覇高校)を学徒隊を祀った「二中健児の塔」がたっており、公園内は御嶽もあり、祈りの場所と認識されているから静かなのかもしれません。

城岳公園は、国際通りからこんなに近いのに 訪れる観光客はほとんどいません。かくいう私も、戦跡を調べるまではこの壕の存在は知りませんでした。

いつも思うのですが、沖縄戦の悲劇を後世に残すため、このような戦跡を次世代に繋げるために、官民合わせて、戦跡の保全に努め、戦跡の認知をいかにしてもらうかが重要だと思っております。

案内板がないのが残念で仕方ありません。

楚辺の陣地壕

住所
沖縄県那覇市楚辺1丁目4
駐車場
なし

周辺は住宅街になっており、路上駐車は絶対にやめましょう。できるだけ公共交通機関で訪れましょう。

戦跡の詳細を知りたい方、記事の内容が気になる方、
実際に戦跡を案内して欲しいというご希望がございましたら、
ぜひお気軽にお問い合わせください。

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戦跡を回る際のお供に是非