突然ですが、「ガマ」を知っていますか?
「ガマ」とは沖縄に多く見られる石灰岩で形成された自然洞窟です。沖縄でも祈りの場所でも「御嶽」としても利用されました。
「ガマ」は戦時中、逃げ惑う人々や地元の人の避難場所して利用しました。
もちろん、「ガマ」に逃げ込んで戦火を逃れ助かった人も大勢います。
しかし一部のガマでは住民が亡くなる悲劇の場所となったのです。
悲劇のガマ「チビチリガマ」
「ガマ」は一般的に沖縄南部にあるイメージが強いですが、沖縄県内至るところにあります。
沖縄本島中部、読谷村波平地区にある「チビチリガマ」もその1つ。
1945年4月1日、沖縄本島西海岸に上陸したアメリカ軍は内陸部に侵攻していきます。
「チビチリガマ」等の「ガマ」には地元の住民多数(140名ほど)避難してました。この「ガマ」にアメリカ兵はやってきました。
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アメリカ兵は住民に投降を促しましたが、当時アメリカ兵に捕まると酷い仕打ちを受けると信じられていたので、住民は誰も聞きません。
反対に竹槍を持って反撃に出た住民もいました。竹槍で突っ込んでくる住民に機関銃を撃ち、手榴弾を入り口に投げ込み、この衝突で2人が重症を負い、その後亡くなりました。
この頃住民の一部から自決という選択肢がでたガマ内部では、「自決派」と「反自決派」で話し合いが行われましたが4月1日は結論がでませんでした。
混乱極まるガマ内部で4月2日に住民の一部で自決が行われると、その後アメリカ軍が洞窟内に入ってくると、混乱はピークに達しました。
住民がつけた火がガマ内に燃え上がり、息ができない住民は苦しみ自決する人が相次ぎます。
毒薬注射をする住民、更に注射液が尽きると、鎌や包丁などの刃物で肉親相互が殺し合うという惨劇が繰り広げられた。
洞窟から出て助かる人もいましたが、140名のうち83名の住民が亡くなったと言われています。
集団自決にいたった背景の一つには捕虜になると、鬼畜と教えられたアメリカ兵に残虐な仕打ちをされると言ったデマや、捕虜になることを許さない当時の軍国教育にあります。
このように「ガマ」で亡くなった住民(もちろん兵隊も)が、今後、戦線が南部まで広がると増大していきます。
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現在、内部は立ち入り禁止に
「チビチリガマ」は読谷村の波平(なみひら)地区の海岸から600mほど内陸に入ったところにあります。少しわかりずらいのですが、駐車場もあります。
側の道路は交通量も多く、住宅街になっていますが、ガマに近づくと、鬱蒼とした森が広がっており、ガマはその森の中にあります。「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が建てられています。ガマ周辺は自由に見学できますが、遺族会の意思により内部へ入ることは禁止されています。
青年男性の名が少ないことがわかります
数年前に地元の少年達による、平和の象の破壊、修学旅行生が作った千羽鶴を引きちぎる、遺骨が集められた部分が荒らされるなどの被害をうけました。
これはチビチリガマを荒らした少年たちが事件後制作したもの
こういうことが二度と起こらないため、次世代に平和をつなぐため、戦跡の伝承、保護公開などますます重要になっていくと思われます。
チビチリガマ
- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村字波平1153
- 駐車場
- あり
チビチリガマはご遺族の意向により入壕が禁止されております。