現在の読谷村村役場付近は、かつて旧日本陸軍が建設しました県内最大の飛行場がありました。
沖縄戦ではアメリカ軍上陸直後、この滑走路をめぐり、激しい戦闘がおきました。
かつての飛行場跡地には様々な戦跡や滑走路の痕跡が残っています。
沖縄最大の「北飛行場」
村役場の近くは高台ですが、平坦になっており、更に真っ直ぐに伸びた道があり、飛行場の跡地というのがよくわかります。
当時「北飛行場」と言われたこの飛行場は、2000メートルの滑走路2本擁する県内最大の飛行場でした。
当初沖縄戦は航空作戦が中心になると考えていたため、多くの飛行場を建設した。沖縄本島だけで7つの飛行場が作られた。しかし、航空作戦は行われず飛行機もないため日本軍が使用することはほぼなかった。
建設は戦時中の昭和18年。住民の土地が軍に接収されました。多いときには軍人・民間人合わせて1日7000人も動員され、1年がかりで建設されました。
沖縄戦が始まると読谷村の海岸から上陸したアメリカ軍は、北飛行場の制圧を目指して進軍を続けます。
日本軍はアメリカ軍に使用される前に自ら破壊して撤退します。
アメリカ軍はそれほど抵抗を受けず、上陸した当日に北飛行場を制圧しました。
制圧したアメリカ軍はすぐに飛行場を整備し、沖縄南部に展開している日本軍に攻撃を開始します。
皮肉にも日本軍が作った飛行場が、日本軍を攻撃するための飛行場となったのです。
これ以降奪還することが出来なかった日本軍ですが、飛行場を奪還するまではいきませんでしたが、何度か飛行場を攻撃しています。
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「掩体壕」が沖縄戦の遺構として現在も残る
「北飛行場」の遺構として、読谷村村役場の近くのサトウキビ畑の中には掩体壕があります。
掩体壕とは飛行機爆撃や攻撃から守る施設のことです。
戦後「北飛行場」は嘉手納基地の「読谷補助飛行場」としてアメリカ軍が使用しました。
戦後幾多の交渉の末、返還されたのは21世紀に入った2006年のことです。
沖縄戦当時、沖縄本島だけでも飛行場はなんと7つもありました。広大な飛行場跡地。
それらは現在どうなっているのでしょうか、、
掩体壕
- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2944
- 駐車場
- 掩体壕の前面に駐車スペース有り