– VOL5 – 「北飛行場」と「掩体壕」読谷村座喜味の戦争遺跡 沖縄戦当時県内最大の飛行場だった場所に残る掩体壕

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現在の読谷村村役場付近は、かつて旧日本陸軍が建設しました県内最大の飛行場がありました。

沖縄戦ではアメリカ軍上陸直後、この滑走路をめぐり、激しい戦闘がおきました。

かつての飛行場跡地には様々な戦跡や滑走路の痕跡が残っています。

沖縄最大の「北飛行場」

村役場の近くは高台ですが、平坦になっており、更に真っ直ぐに伸びた道があり、飛行場の跡地というのがよくわかります。

当時「陸軍沖縄北飛行場」と言われたこの飛行場は、2000メートルの滑走路2本擁する県内最大の飛行場でした。

当初沖縄戦は航空作戦が中心になると考えていたため、多くの飛行場を建設した。沖縄本島だけで7つの飛行場が作られた。しかし、航空作戦は行われず飛行機もないため日本軍が使用することはほぼなかった。

建設は戦時中の1943年。

北飛行場上空地図
1944年アメリカ軍撮影。北飛行場の上空写真
アメリカ公文書館蔵

住民の土地が軍に接収され、多いときには軍人・民間人合わせて1日7000人も動員、1年がかりの工事で1944年に完成しました。

沖縄戦が始まると読谷村の海岸から上陸したアメリカ軍は、「北飛行場」の制圧を目指して進軍を続けます。日本軍はアメリカ軍に使用される前に自ら破壊して撤退します。

アメリカ軍はそれほど抵抗を受けず、上陸した当日に北飛行場を制圧しました。

飛行場を制圧したアメリカ軍はすぐに整備し、沖縄本島より北の攻撃に着手します。皮肉にも日本軍が作った飛行場が、日本軍を攻撃するための飛行場となったのです。

参考記事:日本経済新聞

これ以降飛行場を奪還することが出来なかった日本軍ですが、何度か飛行場を攻撃しています。

「掩体壕」が沖縄戦の遺構として現在も残る

掩体壕

「北飛行場」の遺構として、読谷村村役場の近くのサトウキビ畑の中には掩体壕があります。さらに一部読谷道路はかつての滑走路を利用しています。

掩体壕とは飛行機爆撃や攻撃から守る施設のことです。

戦後「北飛行場」は嘉手納基地の「読谷補助飛行場」としてアメリカ軍が使用しました。幾多の交渉の末、返還されたのは21世紀に入った2006年のことです。

沖縄戦当時、沖縄本島だけでも飛行場はなんと7つもありました。広大な飛行場跡地。
それらは現在どうなっているのでしょうか…

【掩体壕】

住所
沖縄県中頭郡読谷村座喜味2944
駐車場
掩体壕の前面に駐車スペース有り

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