子供たちがサッカーをして、公園の一角の鉄棒では初老の方が鉄棒で懸垂、ベビーカーに揺られながらうとしている赤ちゃんと、その赤ちゃんをあやすお母さん。
そんなどこにでもあるように公園一帯は沖縄戦屈指の激戦地であり、戦中にはアメリカ軍基地「普天間基地」が建設されました。
平和の時間が流れる公園は戦争とは無縁な場所に感じますが、上空で「オスプレイ」や「軍用ヘリ」が頻繁に通る光景はとても異様な光景です。
本気記事では過去と現在の沖縄がわかる「嘉数高台公園」を紹介します。
「いまいましい丘」と呼ばれた嘉数の戦い

普天間基地の直ぐ南側、宜野湾市嘉数には非常に見晴らしの良い高台があります。
日本軍の司令部がある首里へのアメリが軍南下を防ぐため、日本軍は急峻な谷と高台を利用し、いくつもの固い陣地を嘉数に築いていました。
1945年4月1日沖縄本島西海岸に上陸したアメリカ軍は南下開始、1週間以内に嘉数まで到達。ここを突破しないと司令部のある首里にたどり着けません。
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双方の思惑が互いにぶつかり、この場所で双方の主力が初めて激突し沖縄戦屈指の激戦となりました。
日本軍は「反斜面陣地」と呼ばれる陣地を無数に構築し、アメリカ兵を苦しめました。
その結果、この嘉数の丘をめぐる戦いは、1945年4月8日に始まり、16日間続きました。その間の戦傷者は約10万人と言われています。
解説:反射面陣地
敵が迫りくる斜面の前方ではなく、後方に設置した陣地の事。この陣地の場合、アメリカ軍は日本軍がどこから攻撃してくるかわからないため混乱に陥った。
この後の戦いでも「反射面陣地」がアメリカ軍を苦しめることになります。
この戦いに予想以上の苦戦を強いられたアメリカ軍は「火炎放射器」を使用し、このような陣地を徹底的に焼き尽くす作戦に転じます。
嘉数高台から日本軍の司令部のある首里城まで、10キロもない距離を進むのにアメリカ軍は実に2ヶ月弱を要しています。
嘉数高台から日本軍の司令部のある首里城まで幾重にも高台があり、首里城にかけて全ての高台と言っても過言ではないほど、日本軍によって堅固な陣地が作られていました。
「嘉数の戦い」からさらに両軍血と血で洗う泥沼の戦いに突入します。もちろん中部戦線でも住民が巻き込まれたことはいうまでもありません。
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嘉数高地は「嘉数高台公園」になり、眼下に普天間基地が見渡せる。

現在、嘉数高地は「嘉数高台公園として」整備され、市民の憩いの場所となっていますが「トーチカ」(防御陣地)や、弾痕の壁などがあり戦場の痕跡があります。
公園の展望台からは普天間基地も一望でき、「オスプレイ」や「軍用ヘリコプター」が離発着が頻繁に行われているのがわかります。


嘉数高台公園は過去と今を考えさせられる公園です。
【嘉数高台公園】
- 住所
- 沖縄県宜野湾市嘉数1-5
- 駐車場
- 20台ほど(無料)