沖縄本島中部に位置する読谷村。
美しいさとうきび畑が広がり、高台からは青い海を望むことができる読谷村は多くの観光客が訪れます。その美しい風景からは想像しにくいかもしれませんが、読谷村には沖縄戦の戦争遺跡が数多く残っています。
読谷村は、1945年4月1日にアメリカ軍が沖縄本島へ上陸した場所でもあります。そのため、アメリカ軍の上陸地点をはじめ、日本軍が使用した飛行場や陣地、住民が避難したガマなど、貴重な戦跡が村内各地に点在しています。
また、住民の集団自決、ガマでの避難、飛行場の建設、アメリカ軍の上陸など、沖縄戦を知るうえで欠かせない出来事を、実際の場所を訪れながら学ぶことができます。
これらの戦跡を巡ることで、住民、日本軍、アメリカ軍、それぞれの視点から沖縄戦初期に何が起きたのかを多角的に知ることができます。
本記事では、比較的訪れやすい戦跡を中心に、読谷村の沖縄戦を半日で巡るモデルコースを紹介します。
観光だけではなかなか見えてこない、読谷村のもう一つの歴史をぜひ現地で感じてください。
※読谷村役場発としています
※各地の情報は2026年9月の情報です。
~ 読谷村に残る沖縄戦の戦争遺跡をめぐる半日モデルコース ~
※タップするとそれぞれの場所に移動します。
- 時間:2時間から3時間
※移動・駐車・見学などを含めた目安です。
- ポイント:7箇所
車での所要時間はあくまでも目安です。
沖縄の交通渋滞は激しいので、所要時間が変わる場合がございます。
那覇から読谷村役場までは60分ほどかかります

↓ 所要時間5分
義烈空挺隊玉砕之碑と合わせて滞在時間10分
現在の読谷村村役場付近には、日本軍が建設し、当時「北飛行場」と呼ばれた2000メートルの滑走路2本擁する県内最大の飛行場がありました。
「北飛行場」の遺構として、読谷村村役場の近くのサトウキビ畑の中には「掩体壕(えんたいごう)」があります。「掩体壕」とは飛行機爆撃や攻撃から守る施設のこと。
ひっそり残っている「掩体壕」だけが、飛行場跡地だと認識できます。
すぐ横には「義烈空挺隊玉砕之地の碑」もあるので両方の遺跡を見学することができます。
陸上競技場の近くに「掩体壕」の看板があるのでそれを目印にするのがおすすめです。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2944
- 駐車場
- なし
※近くの競技場に駐車可能。わかりにくい場所にあるので、しっかりGoogleマップで確認してください。
✔️「掩体壕」紹介記事
義烈空挺隊玉砕之碑と合わせて滞在時間10分
「義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)」は敵に占領された飛行場に強行着陸をして、飛行機や飛行場の破壊を目的とした部隊で、実際に沖縄戦に動員されました。
1945年5月24日、熊本の飛行場から飛びたった「義烈空挺隊」は沖縄を目指します。しかしアメリカ軍の対空砲火や故障などで、1機だけがアメリカ軍に占領された北飛行場に胴体着陸しました。着陸と同時に乗員兵は飛行場に乱入し、手榴弾や拳銃で飛行機や空港設備を破壊。一時、滑走路が使えなくなる戦果をあげるものの、この作戦で北飛行場に強行着陸した機体の搭乗員は、全員が戦死しました。
「義烈空挺隊玉砕之地之碑」は「義烈空挺隊」が胴体着陸した北飛行場の跡地に建てられました。すぐ横の掩体壕と合わせてご見学ください。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2944
- 駐車場
- なし
※近くの競技場に駐車可能。わかりにくい場所にあるので、しっかりGoogleマップで確認してください。
✔️「義烈空挺隊玉砕之地之碑」紹介記事

↓ 所要時間5分
県道12号線沿いに大きなホルトの木があります。その根元には「座喜味家族壕跡」と刻まれた小さな石碑がひっそりと建っています。ここには、1944年10月10日の「十・十空襲」で壕内に閉じ込められ、亡くなった方々を慰霊する碑が建っています。この空襲は近くの掩体壕を狙った爆撃だったと考えられていますが、爆弾は目標を外れ、家族壕に直撃しました。
現在、石碑の裏には犠牲者の氏名が刻まれています。何気なく通り過ぎてしまいそうな場所ですが、ここにも沖縄戦で亡くなられた人々の記憶が残されています。碑の下にある、本物の砲弾の破片がとても印象的です。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村座喜味564−4
- 駐車場
- なし
- 注意事項
- 駐車場がないので車中から見学するのが望ましい

↓ 所要時間10分
滞在時間10分
「チビチリガマ」はアメリカ軍上陸直後、多くの住民が自決したガマ(自然洞窟)です。
当時、鬼畜と教えられたアメリカ兵に「残虐な仕打ちをされる」と言った当時の考えや、捕虜になることを許されない環境の中、アメリカ軍が迫ってくるとガマ内は大混乱に陥りました。ガマ内で住民の一部が自決すると、それをきっかけに自決する人が相次ぎました。
洞窟から出て助かる人もいましたが、140名のうち83名の住民が亡くなりました。
助かった方も、凄惨な体験から口を閉ざす人が多く、「チビチリガマ」の集団自決が明るみに出たのは戦後38年のことです。
現在、ガマ内はご遺族の意向により立ち入り禁止ですが、入り口付近までは立ち寄れます。入り口付近には慰霊碑がいくつもあり、ここで多くの方が亡くなったことがわかります。改めて沖縄戦の悲惨さを再認識させる場所です。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村字波平1153
- 駐車場
- あり
- 注意事項
- 入壕は禁止されております。また虫が多いので虫除けは必須です
✔️「チビチリガマ」紹介記事
チビチリガマとは対照に全員が生き残ったとされるシムクガマは近くにありますが、ほとんど看板がなく、個人で行くのにはハードルが高いので、本記事では紹介しません。シムクガマご見学の際はガイドと同行するするのが良いでしょう。

↓ 所要時間15分
滞在時間20分
1945年4月1日、艦船数1500隻で来襲したアメリカ軍は北谷町の海岸から読谷村渡具知海岸にかけて上陸作戦を開始しました。
日本軍が戦略的持久をとり大きな抵抗をしなかったため、アメリカ軍はその日のうちに6万人が揚陸しました。
上陸地点の一つ読谷村「渡具知海岸」の高台には「アメリカ軍上陸地モニュメント」が建てられています。ビーチ沿いにはBBQの施設が整っており、とても雰囲気が良い海岸です。駐車場もあるので綺麗なビーチを見ながら、のんびり散策するのもおすすめです。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村字渡具知228
- 駐車場
- あり
✔️アメリカ軍上陸の地の碑の紹介記事

↓ 所要時間10分
滞在時間5分
字古堅の一角に残る「古堅国民学校校門跡」。周辺は戦前、古堅国民学校の校地でしたが、戦後にアメリカ軍に接収され、現在はわずかな一画だけが残されています。古堅国民学校は沖縄戦が近づくにつれ軍に接収され、日本軍が駐屯しました。そのため、子どもたちは学校で授業を受けることができず、民家などに分かれて授業を行い、青空教室を余儀なくされたこともあったそうです。
その後、1945年3月末のアメリカ軍による空襲で、校舎や校地は大きな被害を受けました。
門柱は戦後も移設を繰り返し、現在の場所に移されました。校門前にあったデイゴの木も戦火をくぐり抜け、当時を知る貴重な存在です。
静かな住宅地に残る門柱とデイゴ。ここには、学校が軍に接収され、子どもたちの日常まで戦争に奪われていった歴史を感じることができます。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村大湾531-9
- 駐車場
- なし
※駐車場がないため、周辺の交通や住民の迷惑にならないよう、停車するか、車内から見学することをおすすめします。

↓ 所要時間5分
滞在時間5分
古堅のウガン(御嶽)には、沖縄戦をくぐり抜けた「フクギ」が残っています。
戦前、この境内には多くのフクギが生えていましたが、沖縄戦の戦火によって大部分が焼け、現在残っているのは14本です。
焼けた部分は腐食や虫食いによって穴が開き、アコウなどの木が入り込んでいました。それでもフクギは枯れることなく、半ば空洞になりながらも生き続けています。
戦後地域の人々が境内を清掃した際に寄生した木などを取り除き、現在の姿になりました。
現在、古堅の慰霊之碑の右手に立つフクギは、砲火によって幹や樹木の上部が傷つき、痛々しい姿を残していますが、戦火を耐え抜いたその姿からは、戦争の激しさと生命力の強さを感じることができます。

- 住所
- 沖縄県中頭郡読谷村古堅28
- 駐車場
- なし
※駐車場がないため、周辺の交通や住民の迷惑にならないよう、停車するか、車内から見学することをおすすめします。
✔️当ブログで紹介した戦争遺跡をまとめたコンテンツを作成しました!回る際に役立ちます
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